15. 偽物の婚約契約書
ヴァイセンブルク帝国にあるアッシュクロフト侯爵家領地へは、大陸を横断して寝台列車で行く。
私たちが乗車する豪華寝台列車は、正午にパリ東駅を発ち、翌日の夜にはウィーンを通過する予定だった。
イヴォンヌは、すっかり大人のレディになりきって、赤銅色の髪を高く結い、羽根飾りのついた小さな帽子を斜めに載せていた。
これは、アリス・スペンサー邸にあるディアーナ姉様の衣装箪笥から借りたものだ。
背には十五歳という年齢に不似合いなほど流行を意識した、小ぶりのバッスルまで入っていた。
「皆さん、では行きますわよ!」
本人はすっかり大人のレディのつもりで、蜂蜜色のダスターコートを従者に預ける仕草まで堂に入っていた。
私はイヴォンヌの後をカイと並んで歩いた。
私が着ている旅行着は、鳩羽色で、目を奪うような刺繍も、華やかな羽根飾りもない。
喉元を留める小粒の真珠と、袖口からのぞくクリーム色の絹だけが装飾らしい装飾だ。胸元に輝く小さな皇室紋章がある。
混雑する駅構内を慌ただしく通り抜け、私たちは寝台列車のコンパートメントに転がり込むようにして乗り込んだ。
その瞬間、八芒星がコンパートメントの床に現れた。
「うわっ!」
「きゃっ!フリッツ、ちょっと、そこどいて!」
「なんだよ、うわっ」
八芒星の真ん中に、黒に近いボトルグリーンの乗馬服をまとった若い女性が現れた。
ディアーナ姉様だ。
初夏向けの薄い毛織物で仕立てられた上衣は、喉元から腰まで隙なく身体に沿い、長い横鞍用のスカートの下からは、泥のついた黒革の乗馬靴がのぞいていた。
燃えるような赤い髪は何房かがほどけ、上気した頬に張りついている。
黒いトップハットは片手に抱えられ、外れかけたヴェールが急に現れた勢いで風になびいているようだ。
もう一方の手には、クリーム色の手袋と、銀の王冠を刻んだ黒檀の乗馬鞭が握られている。
エメラルドの瞳が私を見た。
その瞬間、互いに笑顔になった。
「ロミィ!やっと会えたわ!」
「ディアーナ姉様!」
「ディアーナ皇太子妃さま、お久しぶりでございます。イヴォンヌ・ド・モンフォールでございます」
「イヴォンヌ、見違えるほど素敵なレディになったわね」
イヴォンヌとにこやかに挨拶をしたディアーナ姉様は、今度はカイ・アッシュクロフトを見つめた。
カイは緊張した表情をしている。ディアーナ姉様は満面の笑みを浮かべた。
カイは濃紺の三つ揃いを隙なく着こなしていた。淡い灰青色のウェストコートには銀の鎖が渡され、その先の懐中時計は左のポケットに収まっている。
ブロンドの髪を、黒い山高帽が覆っていたが、彼はサッと帽子を取って、ディアーナ姉様に挨拶をした。
「あなたがアッシュクロフト侯爵家のカイね?」
「初めまして、皇太子妃」
「初めまして。これからアッシュクロフトの領地に向かうと聞いたわ」
「えぇ、そうです」
「あの……皇太子妃、これはその……」
イヴォンヌが慌てて口を挟んだが、ディアーナ姉様はしっかりとカイのブルーの瞳を見つめて尋ねた。
「あなた、どういうつもりでロミィをご家族に会わせるのかしら?」
カイは一度も視線をそらさなかった。
「私の家族にロミィ嬢を会わせたいのは、彼女と婚約したいからです」
カイははっきりと言った。
私の心臓はドキンとした。
ディアーナ姉様は一瞬じっとカイを見つめた。
「順番が逆ではないかと思うけれど、そこはいいですわ。緊急事態でもありますから」
急にルイ兄様が八芒星から現れた。同じく乗馬服だ。
「お前が霊獣のフリッツか」
ディアーナ姉様の登場に驚いて、私のスカートの陰に隠れていたフリッツをめざとく見つけたルイ兄様は、目を細めて値踏みするようにして霊獣の香リスを見た。
フリッツは固まったように動かなかった。
「皇太子様っ!」
イヴォンヌが慌てた様子で言った。ルイ兄様はザックリードハルトの皇太子だ。
「あ、久しぶりだね、イヴォンヌ」
そうイヴォンヌに言ったかと思うと、ルイ兄様はカイの方をサッと向いて、握手をした。
「君がアッシュクロフト家の嫡男か。昨日はロミィを助けてくれたそうだね、ありがとう。是非アッシュクロフト家の皆さんによろしく言ってくれ。近いうちにまた会おう」
ディアーナ姉様とルイ兄様には、昨晩、一部始終をテレグラフで伝えていた。
「ロミィ、少し話があるから話そう。フリッツは残ってくれ。カイとイヴォンヌは食堂車に行ってみたらどうかな?」
イヴォンヌとカイは会釈をしてコンパートメントから出て行った。
マホガニーの机の上にはシェードがあり、夜にはふかふかな寝台に変わるソファがあった。
「闇の禁書の呪文をどうやって唱えた?」
ルイ兄様は素早く私に聞いた。
「覚えていた最初の呪文を唱えたの。本当にごめんなさい。軽はずみだったわ」
「覚えていたのか……だが、軽はずみで済む問題じゃないだろう?覚えていても使ってはいけなかった!」
ルイ兄様は険しい表情で私を見た。
「魔法結界に穴が空いている。魔法網が汚染されている。術式の綻びが顕著になった。わかっているな?そこの霊獣!」
ルイ兄様は怒っていた。
「主の兄上だからおとなしく聞いていれば、なんと無礼な口のききよう!」
フリッツは腕組みをしてふんぞり返って叫んだ。
「あぁ、待って待って」
私はフリッツと兄様の喧嘩の仲裁に入った。
「ロミィ、あなた何かできることが増えているんじゃない?」
ディアーナ姉様は私を心配そうに見つめた。心から心配している姉様の様子に、私の不安は強くなった。
「はい……」
私は唇を噛み締めた。
仕方ない。隠し事はできない。
「術式顕現」
私の声に応じ、無数の文字列と魔法陣が空中へ広がった。青白い光の帯が壁から天井までを埋め、その合間に、赤黒い花のような染みがいくつも咲いていた。
ルイ兄様は喉の奥で小さくうめき、ソファへドスンと腰を落とした。
「止めて」
「はい、姉様」
不気味な赤い花がついた術式に、ディアーナ姉様は眉を顰めた。
「汚染されているわね」
「ロミィ、あなたは全ての術式を参照できるわ。闇の禁書を見なくても、いつでも術式を取り出して、そのまま読み上げることで呪文を実行できるかもしれない。術式顕現ができるようになったのは、昨日で間違いないかしら?」
「はい」
「フリッツ、あなた何かしたわよね?」
「俺じゃない」
「じゃ、誰だ」
「多分……ロミィだ」
沈黙が訪れた。
——フリッツではなく、私が自分でやったというの?
「俺を呼び出した時、ロミィは怒っていた。猛烈に。術式を見られるようになった以上、いずれ一つずつ実行できるようになるはずだ。毎日一つずつかもしれないし、もっと速いかもしれない。どれだけの速さで解放されるかは、主の力次第だ」
ふうっと、ルイ兄様が息を吐いた。
ルイ兄様はしばらく考え込み、やがて顔を上げた。
「魔法網の件は、こちらでも調査する。それとは別に、非公式婚姻打診書を作成する。ロミィ、いいな?」
胸元に輝く小さな皇室紋章を取りたいと思った。
「私の前の婚約がダメになった理由を教えてくださるかしら?」
私はしわがれ声で聞いた。
今にも泣きそうな気分だ。
それを聞かないと、前に進めない気がした。
——誰が理由を教えて!
ディアーナ姉様がサッとルイ兄様を見た。何か二人が目で会話したのが分かった。
「ごめんなさい。言えないわ」
「すまない。言えない」
二人が苦しそうな声を出したのが私は分かった。私が彼に恋心を抱いていたのを二人は知っていた。
十三歳の恋なんてたかが知れていると思うかもしれない。でも、初恋で、婚約破棄されたショックで私は引きこもった。
私は泣きながら、言った。
「カイが進めるなら……私も、前に進みます」
もう、あの沼に落ちたくなかった。
前に進もう。忘れよう。
「分かった。すぐに整えるが、慎重に行こう」
「分かった、ルイ兄様」
ディアーナ姉様は私を抱きしめてくれた。
八芒星の上に二人が立ち、一瞬で消えるのを私は見つめた。
相変わらず、ディアーナ姉様の魔力はすごい。
「さあ、主、豪華食堂車に行こう」
フリッツは腕組みをして私に宣言した。
「教えてしんぜよう。昔の婚約破棄の理由は、婚約契約書が偽物だったからだ」
「は!?」
私はフリッツのフサフサの尻尾を踏みそうになった。
「おっと、主、気をつけてくれよ……「フリッツ!もう一回言って!?」」
寝台車のふかふかのソファに横転した。
——たった一枚の偽物のために、私は二年間も自分を責め続けたの?
——私が捨てられたからでは、なかったの?
——いや?捨てられたのには、変わりがないのか。
「主、偽物の理由が二人が黙る理由だぜ」
豪華寝台列車のコンパートメントは、秘密の話を聞くには最高の場所だった。
「フリッツは、誰が何のために偽物に差し替えたのか知っているの?」




