14. 術式の綻びより婚約ですか?
階下へ降りると、高級百貨店仕立てのバトラーズ・ドレススーツが目に入った。昨晩までいなかった執事が待っていたのだ。
初夏向けの薄い黒色梳毛地に、白い立ち襟とタイ。ブランドン公爵家のお仕着せを一分の隙もなく着こなしているのは、執事のレイトンだ。どうやら、ディアーナ姉様が送り込んだらしい。
隣国のエイトレンスのブランドン公爵家の令嬢だったディアーナ姉様は、従姉妹のイヴォンヌ伯爵令嬢の解説によれば、転生者らしい。
イヴォンヌが前世を過ごした世界にも、部屋へ冷気を送り込む機械や、蛇口をひねるだけで湯が出る浴室があったという。
確かに、十一歳でこのゴビンタン砂漠のアリス・スペンサー邸宅を訪れた際、私はこの仕組みを熱心にディアーナ姉様に聞いた記憶があった。この邸宅の図書室は特に大好きだった。
「おはよう、レイトン」
「おはようございます、ロミィお嬢様」
「おっと」
執事のレイトンは上品に首をかしげた。私の肩にフリッツが座っていたからだろう。
「そちらのリスは、お嬢様のペットでございますか?」
「ペット!?ペット……って!俺様が?」
憤慨して霊獣香リスは肩から飛び降りて、私とレイトンの間にあったソファに着地した。
ふかふかのソファの上で、腕組みをしてレイトンを睨んでいる。
「のぞみは何か、申してみよ!」
フリッツがレイトンに言った。レイトンは意外と冷静だ。ディアーナ姉様が猛烈な魔力を持つお方なので、慣れているのだろうか。いや、ディアーナ姉様は霊獣を出したりはしないはずだ。
「そうですね……燻製の鱈を使ったケジャリーが望みです。ちょうど朝食に欲しかったのです。でもここは砂漠でしょう?しまったと思いましてね」
執事のレイトンが言った瞬間、フリッツはのけぞって後ろに倒れた。柔らかいソファの上で飛び跳ねた。
「フリッツは食べ物は出せないのよ……」
私が釈明した。
「主、言うな!今、匂いを嗅いでいる!」
「そうそう、盗んでくることはできるのよ」
「言うな!」
「シーっ!フリッツ!声が大きいわ。まだカイとイヴォンヌが寝ているでしょう?」
霊獣のフリッツはソファの上でバウンドを跳ね始めた。両腕を上げて、ポンポン飛んでいる。
「無言の抗議のつもり?」
私は笑ってしまった。執事のレイトンですら込み上げてくる笑いを噛み殺しているようだ。
「ここには……燻製の鱈は無い!」
「ご名答」
レイトンはにっこりと微笑むと、どんぐりを差し出した。
「昨晩、ディアーナ様にお願いされまして、持ってきました」
秋のどんぐりがなぜ初夏にあるのか分からない。だが、フリッツは飛びついた。確か昨晩もこの邸宅にはあったと思う。
「礼を言うぞ!」
どんぐりに夢中になったリスのフリッツをそのままにして、私はキッチンに入った。
「テレサ、ミラ、おはよう」
「おはようございます、ロミィお嬢様!」
ブランドン公爵家のメイドたちの初夏用のお仕着せをまとった二人は朝食の準備をしていた。
薄手の灰色木綿で仕立てた立ち襟、長袖、くるぶし丈のドレスに、細かな水玉を織り出した白いモスリンのキャップを二人は身につけている。
彼女たちを眺めていて、私は思いついたことがあった。
胸当てから裾まで白糸刺繍を施した上等なエプロンという姿姿を自分もしてみようと思ったのだ。
「朝食の後で、そのメイドの制服を貸してくださる?」
「え?」
「お店を開こうと思って」
「なぜですか?」
ふふっと笑うだけにとどめた。
フリッツにだって、まだ言っていないことだ。私のささやかな力が本当に人を幸せにするなら、自分のためにも人のためにも店を開きたいと思ったのだ。少々変わった店だが。
ミラとテレサは不思議そうな顔をしたが、承知してくれた。
朝食は舌平目のバター焼き、香草入りのふっくらしたオムレツ、薄切りのハムとクレソン、それに焼きたてのブリオッシュだった。初夏の苺にはたっぷりのクリームが添えられ、飲み物は紅茶のほかに、熱いコーヒーとショコラまで用意されていた。
カイ・アッシュクロフトと、イヴォンヌは間に合わせの着替えをミラとテレサが用意してくれていた。二人が昨日着ていた服は既に洗濯されて、私のと一緒に砂漠に干されていた。おそらくあっという間に乾くだろう。
「すごいな」
「本当に砂漠なのかしらと思うわ」
「この家はすごいぞ!」
イヴォンヌとカイは初めて訪れたアリス・スペンサー邸にしきりに驚いていた。皮肉屋のフリッツですら大絶賛していた。
朝食はどれも銀の蓋つき皿から湯気を立てていて、公爵家の朝食そのものを再現していた。
確か、ミラは元々コックだったと聞いていて、ミラが料理が得意なことに助けられたとディアーナ姉様は話していたと思う。
婚約破棄されたとき、ここに逃げ込んでいたら、少しは変わったのかもしれない。だが、私は皇宮の自分の部屋に引きこもってしまった。
目の前には、いくらでも助けが用意されていたのに、私はそれを掴むことを自ら拒んでしまったのだ。
「さ!アッシュクロフト侯爵家のお婆様にお会いしにいきましょうか」
イヴォンヌのバイタリティには参る。
だって昨日話していたでしょ?と言わんばかりの顔でカイと私を交互に見ている。
——ちょっと待って……!
「そうだな。善は急げだな」
「おうよ」
カイとフリッツですら、同意してしまっている。
——待って?待ってよ!
「婚約の話だろ。まずはアッシュクロフト侯爵家の意思を固める」
あっさりとカイに言われて、私はひっくり返りそうになった。カイは平然と言ったが、コーヒーカップを置く手だけが、ほんの少し速かった。赤面している。
私まで赤面してしまった。
——もう、術式顕現で見た魔法網汚染はどうするのよ!?
私はすごい目でフリッツを睨んだ。
「主、それに逃げるのはダメだ。それはそれ、これはこれよ」
フリッツは私の心をお見通しかのように、両手をひらひらさせて私に言った。
——何そのダンスみたいな動き。あったまくる!
「だーいじょーぶっ!イヴォンヌ・ド・モンフォール伯爵令嬢にお任せあれ。我がモンフォール伯爵家の力を侮るなかれ」
今日も赤銅色の髪を綺麗に結い上げたイヴォンヌは、私の両肩を抱いて微笑んだ。
「いや、まだやることが……だって術式綻びが……」
「それはそれ、これはこれよ!」
イヴォンヌまでフリッツの真似をして両手をひらひらさせた。
——イヴォンヌったら、訳がわかってないくせに!
ただ、この全員は灰色の怪物を見た仲間でもあった。
「綻びの根は、アッシュクロフト領へ伸びておる」
「え?」
「主、我をみくびるなよ。朝、調べておいた」
「だったら、尚こそみんなの順番は逆じゃない?怪物が出ないようにする方が先でしょ」
「どっちもだ。主、そのうち分かる」
フリッツは丸い瞳を私に向けて、思わせぶりなことを言った。
——分かっている事があるなら、早く言ってよ!
イヴォンヌはどうしても私とカイをくっつけたいようだ。
彼女は楽しそうにフリッツを両手で抱えて腕に抱いた。フリッツとイヴォンヌは私をキラキラした瞳で見つめた。
「いざ、アッシュクロフトの領地へ!鉄道で行くでしょ、当然よね」
「聖セレスティーヌ女学院もセント・エントン王立学院も、今日はズル休みですか?」
私の言葉にイヴォンヌもカイもフリッツも、勢いよく頷いた。
「当然だよ!」
二人と一匹は声を揃えて私に言い、テレサとミラは昼食をバスケットに詰めなきゃとそう言いながら、キッチンへ駆け戻った。
「私たちもお供するよう、仰せつかっていますから!」
テレサがサッとキッチンから食堂に顔を出して、私に伝えてまた顔を引っ込めた。
——なんで、婚約が先なのよ!?術式の綻びは……?




