13. 月夜の蜂蜜菓子と赤い花
夜が訪れた。
月明かりの砂漠で星を見ながら、飛ぶ長椅子にカイと一緒に座って空を漂っていた。
——綺麗。
星が本当に綺麗だった。
真っ暗闇の眼下には、アリス・スペンサー宅の明るい光が見えた。
フリッツはどんぐりのおやつをもらって(どこからテレサが出してくれたのか謎だったけれど)ご満悦だった。きっと今も、暖炉の前で、フリッツはどんぐりをかじるのに精を出しているだろう。
「あのさ、俺、君と春に会ったんだよ」
カイが髪をかきあげて、私を横目でチラッと見た。
「さっき、大きなドレスなのによく飛べるなんて、変な言い方をしてごめん。本当は、君の飛び方が綺麗だと言いたかった」
「それが、どうしてあの言い方になるの?」
「君を前にすると、緊張して何を言えばいいか分からなくなるんだ」
——私を褒めようとして、あんな言い方になったのね……?
「今日、生卵をぶつけられてドレスを洗っていたよね。春にも君を見かけたんだ。君が泣いて馬車へ乗るのを見て、声をかけられなかった。そのあと、金環日食を見る列車の駅で、偶然もう一度君を見つけた」
私は驚いてカイの顔を見つめた。
「食堂車で君を見つけて、隣の席が空いていたから座ったんだ」
——食堂車で隣にいた少年?
当時の私は、皇女となった立場に馴染めず、宮殿から逃げ出すように金環日食を見に行った。
私は生まれながらに皇女だったわけではない。権力争いの果てに父がスライド式で皇帝になっただけだ。だからか、今の立場がずっと窮屈で仕方がなかった。
あの時、食堂車にカイ・アッシュクロフトがいたなんて、気づきもしなかった。
「金環日食を見に行ったあの時、君のそばにいたら、お菓子を作るのがうまくて褒められたことを思い出したんだ。それは、本当に幸せな記憶だったんだよ。心が温かくなるような記憶だった。だから、あの後、帰ったらすぐにお菓子作りを再開したんだ」
三日月がカイの横顔を照らしていて、私は嬉しそうに笑う彼が初めて可愛いかもしれないと思った。
「ほら、さっき、砂漠の家のキッチンで焼いたんだけど、食べる?」
カイ・アッシュクロフトは恥ずかしそうに、自分が焼いたというクッキーの包みを差し出した。
私はそのクッキーを口にした。幸せの味がした。
「美味しいわ」
「ありがとう」
月明かりの砂漠は綺麗だった。ザックリードハルトの街も何も見えない真っ暗闇が続く砂漠は、恐ろしさより美しさが勝る場所だった。
私は以前にカイが自分を見つけてくれていた事に、不思議な気持ちになった。砂漠の空の上で二人だけで話すと、カイが自分にとって、極近しい存在に思えた。
互いの心が近づいたように思って、胸の奥にポッと温かい火が灯ったようだった。
その後、砂漠の家から皇宮にテレグラフをした。
モンフォール伯爵家のイヴォンヌと、アッシュクロフト侯爵家のカイは、私と一緒に砂漠のアリス・スペンサー宅に泊まることにしたとディアーナ姉様に伝えた。
「了解。今日の騒ぎについて、明日、教えてね」
ディアーナ姉様からはそれだけ返事が来た。それぞれの家にはディアーナ姉様が何とかうまく連絡してくれるだろう。
テレグラフを終えると、ようやく屋敷が静かになった。
イヴォンヌはアリス・スペンサー宅のあらゆる仕組みを見て周り、感嘆していたが、やがて客室のベッドで眠りについた。
カイも眠った。
真夜中になり、私はフリッツと一緒に長椅子に乗って再び空を飛んだ。
「いやあ、ネフェロバテスを操るブルクトゥアタに召喚されるとはね。主よ、分かっているな」
「分かっているわよ」
三日月を見上げるようにして、私は長椅子を空中に止めた。
十一歳の時に、隣国の王立魔術博物館に飛ぶ長椅子を使って忍び込んだ。そして、闇の禁書を盗み出し、砂漠のこの家まで逃げてきて、落下した。
ディアーナ姉様に救われた時、しばらくこの家で過ごし、私は闇の禁書をくまなく読もうとした。
当時は意味がまるで分からなかった。
だが、今日の出来事によって、私はなんとなく、闇の禁書に書かれていることが分かったのだ。
この砂漠の家は、十一歳の時の私の記憶を蘇らせた。砂漠の家の独特の匂い、空気、色んな近代的な機能。それらが私の記憶を鮮やかにした。
今日、うっかり魔法結界を開いて、フリッツを召喚してしまった。その後に再び魔法結界を閉じた。
私は長椅子の上で深呼吸をした。これから初めてやる事をするのだ。
「術式顕現」
私はボソと呟いた。特殊な闇の魔術も浮かびあがらせる術式確認の方法だ。
目の前の星空に浮かぶように、魔術の式が次から次に現れ始めた。術式の一覧を私とフリッツは黙って眺めた。
「止めろ」
フリッツが鋭く言い、私は術式顕現を止めた。
街のはるか向こうで、不気味な赤い花が術式の間に埋め込まれているのを見つけた。その術式は宙に浮いていた。
「赤い花?」
「赤い花ね……」
「紛れ込んだな。魔法網が汚染されているんだ」
フリッツの丸い瞳が私を見上げて、両手を握りしめている。
「怖がってるな?」
「怖いわよ。あんな怪物が現れたら、それは怖いわよ」
「ちっちっちっ、伝説のブルクトゥアタのくせに」
「それとこれは関係ないわよ」
「主が結界を開いたことで、隠れていた綻びが広がった可能性はある」
「言われなくても、分かってるわ」
「とにかく、アッシュクロフト侯爵家との婚約は急げ」
「なんでっ!?」
「シーっ!主、カイが起きる!」
「起きないわよ……この距離で聞こえるわけないじゃない」
私はムキになって反論した。恥ずかしくて顔が真っ赤になっていた。
「あの坊ちゃんからは、主が呼び戻した温かい記憶の匂いがする。あいつは主の力を利用しない。受け取って、自分の菓子にした」
「それと婚約を急ぐことに、何の関係があるのよ!」
「大ありだ。主は他人の大事なものを思い出させるくせに、自分の大事さはすぐ忘れるからな」
フリッツの言葉は優しかった。
「婚約の段取りはイヴォンヌに任せろ。もちろん嫌なら断ればいい。だが、自分にはふさわしくないと、最初から勝手に諦めるな」
本当に忘れたかったのは、十三歳の婚約破棄のことだ。その相手のジュリアンのことも含めて、悲しい出来事については、私の頭は一度も記憶を失ってくれなかった。
一度は屋敷へ戻った。
けれど、赤い花が気になって眠れなかった。
眠る前に、もう一度だけ確かめることにした。
「術式顕現」
先ほど見つけた赤い花の隣で、新しい蕾が膨らみ始めていた。
「フリッツ……赤い花が増えているわ」
「ああ。それに、主」
フリッツの丸い瞳から、いつものふざけた光が消えた。
「これは、今日生まれた花じゃない。前からあったのが、主が扉を開けたせいで、一気に育ってるんだ」
私は打ちのめされる思いで、空からベッドに戻った。
眠る前に、一つだけ思ってしまった。
カイは、私のそばでお菓子の記憶を取り戻した。だから、また焼き始めた。
——あの人が好きなのは、私なのかしら。
——それとも、私のそばにいる時の、あの人自身なのかしら。




