12. 今度、ロミィにも会わせるよ
目を覚ましたとき、私は空を飛ぶ長椅子の上にいた。
衣装室の窓から落ちたあとの数時間が、記憶から丸ごと抜け落ちていた。
「ロミィ嬢、大丈夫か?」
カイ・アッシュクロフトが私の顔を覗き込んでいた。額には汗が浮かび、私の頬へ伸ばした指が小さく震えていた。
大貴族アッシュクロフト家の嫡男、その人が私の隣に座って、頬に手を伸ばしている。
ドレスが風に激しくはためいた。
心臓の音が、風の音より大きい。
——これは、一体どういう状態なの?
王立セント・エントン学院のスターであるカイ・アッシュクロフトと私は、空中に浮いていた。
長椅子に乗って。
彼と一緒にいるところを見られたら、婚約を破棄されたのに、また次の婿候補を捕まえた、と噂されるだろうか。
頭の中には、数時間分の不自然な空白があった。
その空白が、どうしても埋まらない。
「覚えていなくても、俺が覚えているから大丈夫」
カイに力強く断言され、霊獣らしきリスが「ヒューッ」と冷やかしの声を上げた。
私はどういう事か分からず困惑した。
「何を?」
「俺が君と婚約したいと言ったこと」
——はい?
——今日の私に、一体何が起きたの?
「お茶を飲みながら、話そうか。休もう」
カイ・アッシュクロフトが私を気遣って提案した。
「それなら、モンフォールの間があるわ」
三十年前、モンフォール家が寄贈した時計塔の最上階には、一族だけが使える小客間があった。聖セレスティーヌ女学院でもモンフォール伯爵家の威力は健在だ。
私は長椅子を塔の最上階の八角形の部屋につけた。窓からそっと部屋に乗りつけた。
学院の屋根や庭園、遠くの町まで見渡せる部屋だった。私は一度しか来たことがない。けれど今は、景色を楽しむ余裕もないほどクタクタだった。
窓辺に半円形の腰掛けがあり、そこにドスンと座った。
小さな石造りの暖炉の前にある深緑の革張り椅子にフリッツが座った。刺繍布を掛けた丸い茶卓の上のお菓子を入れているカゴは空っぽだった。
暖炉脇の壁に、小さな真鍮の扉があった。
私が呼び鈴を二度引くと、壁の中で滑車が回り始め、やがて銀のポットと菓子皿を載せた棚が上がってきた。
「おぉ!すごい!」
「でしょう?」
私は塔の小窓の取手に、黄色いスカーフを結びつけた。
「こうしておけば、イヴォンヌは私がここにいると分かるはずよ」
温かいお茶を飲んで、クッキーを頬張ると、人心地がついた。
私は記憶を呼び起こそうとした。
「生卵をぶつけられたこと。禁書の呪文を唱えたこと。フリッツを召喚したこと。イヴォンヌと温室で話したこと。カイから蜂蜜菓子をもらったこと……そこまでは覚えているわ」
私はカップを置いた。
「そこから……」
そこから先が分からない。
衣装室の窓から落ちる直前からの記憶だけが、黒く塗り潰されたままだった。
カイは時々、耳を疑うようなもの凄い事を私に言っていたと思う。信じられないような、赤面するような事をだ。
「主、こんなビッグニュースを忘れたとは言わせないぜ?」
——もう、さっきから生意気な霊獣リスは何なの?
私はイライラと唇の端を噛んだ。
——待ってよ。
——順番に思い出したい。
——カイから婚約を申し込まれるだけでも、天変地異に等しい。
——でも、それさえ霞むほどとんでもないことが起きた感覚だけは残っている。
——そうでなければ、記憶を失うわけがない。
「私が忘れていることを、順番に教えてくださる?」
カイは頷いた。
「エミリアに五階の窓から突き落とされた。俺とフリッツも一緒に落ちた」
「有り得ないけど、分かったわ」
「死ぬかと思ったら、どこか違う時代らしい、水を張った大きな箱へ落ちて助かった」
「……はい?」
——もう、分からない。
「君が長椅子を呼び、元の時代へ戻った。そのあと、灰色の怪物が現れた」
目を閉じた。
これは、自然に思い出すのを待った方がいいのではないだろうか?
全然飲み込めないし、これほどの美男が私の隣で大真面目に語る話としては、奇想天外過ぎて、嘘にまで聞こえる。
——壊滅的に女子と話せないカイは、私を驚かせようと作り話をしていないだろうか?
しかし、霊獣リスのフリッツが指を一本立てた。
「ちっちっちっ、主、婚約者候補の顔より、話に集中せよ」
「さっきから何なのよ、フリッツ!」
「その勢いだ、主、調子が戻ってきたぞ」
私は霊獣リスの失礼さに呆れて、深くため息をついた。
「いいか?主、まず深呼吸をしてくれ」
リスの丸いつぶらな瞳を見つめた。どうやら真剣なようだ。
私は深く深呼吸をした。
「主が、緩んだ《《魔法結界を閉じた》》。そして怪物を追い払った」
「どうやって!?そんな事できるわけないでしょ……あっ!」
私はとんでもない事に気づいた。
「闇の禁書」の呪文を確かに唱えた。
頭の中に記憶しているものをノートに書いた。
——私の鞄とノート!
——あんなモノを放置は出来ないわ。取ってこなきゃ!
「もしかして、私は今日、三つの術式を唱えた!?」
朧げながら、呪文を唱える瞬間の記憶がうっすら戻ってきた。
「そうだ。最後の魔法結界を閉じる時に力を使い、その代わりに記憶が抜け落ちたようだ」
フリッツは静かに言った。
私は両手で顔を覆った。
「もう無理。今日はこれ以上、何も聞きたくないわ」
——気分が悪い。
自分が何をしたか、おそらく、分かっている。
ディアーナ姉様とルイ兄様の顔が浮かんだ。
——二人に顔向け出来ない事をしてしまった!
「砂漠の家へ行くわ」
「王立魔術博物館から逃げるためか?」
「それもあるわ。でも今は、誰もいない場所で、温かいものを食べて眠りたいの」
「砂漠の家に俺も行きたい」
カイが私に言った。私は考える気力もなく、承諾した。
「ちょっと、ロミィ!大丈夫なの?」
窓枠に結びつけられた黄色いスカーフを見て、塔の螺旋階段を登ってイヴォンヌがやってきてくれた。私のノートが入った書類鞄も持ってきてくれていた。
「私は大丈夫よ」
「よかった」
「エミリアは?」
私が尋ねると、イヴォンヌの笑顔が消えた。
「姿は元に戻ったわ。十五歳のエミリアよ。でも……本人は、七十年だったと言い続けているの」
「七十年?」
「あちらでは七十年が過ぎたみたい。身体は戻ったけれど、その間の記憶までは消えていないらしいわ」
意味が分からないけど、元には戻ったのね。
カイがイヴォンヌに計画を説明した。
「ロミィは、今から砂漠の家へ行くそうだ」
フリッツが胸を張って誘った。
「イヴォンヌ伯爵令嬢、そなたも来るか?」
イヴォンヌは笑顔になった。
「行くわ!一度行ってみたかったのよ」
フリッツは同志のようにイヴォンヌの肩に飛び乗り、大きく頷いた。
あー、フリッツが良からぬ魂胆でイヴォンヌと結託すると、頭が痛いわ。
砂漠の家へ向かう前に、私は学院の医務室へ寄った。
エミリアは寝台の上に座り、手鏡を両手で握っていた。栗色の髪も、白い頬も、十五歳の少女に戻っていた。
けれど、鏡を覗く目だけが、ひどく年老いて見えた。
「ロミィ……」
私を見た途端、エミリアの指から手鏡が滑り落ちた。
「ごめんなさい。私、あなたを……」
「私は、あなたに何をされたのか覚えていないの」
エミリアの顔から血の気が引いた。
「衣装室の窓から落ちたあとの記憶だけど、その時のことを自分では覚えていないの。カイから聞いただけよ。だから今は、あなたを許すとも、許さないとも言えないわ」
カイは私の隣に立ったまま、一歩も離れなかった。
エミリアはカイを見た。
けれど、エミリアは以前のように彼の名を呼ぶことはできなかったようだ。
医務室の扉には、学院長と教師が立っていた。
「デ・アルバ嬢が皇女殿下を五階から突き落とした件については、学院と皇宮、レスパーニュ側を交えて正式に調査します」
学院長が告げると、エミリアは俯いた。
「七十年も……一人だったのよ」
消え入りそうな声が聞こえた。
けれど、今の私には、その七十年を慰めるだけの力が残っていなかった。
「戻ってきたら、話を聞くわ。今は私も休みたいの」
私はカイと一緒に医務室を出た。
エミリアの事はしばらく頭から追い出したかった。
数時間後、私たちは砂漠に建つアリス・スペンサー邸へ到着した。
皇太子妃のディアーナ姉様が所有する、誰にも邪魔されずに過ごせる家だ。
扉を開けると、ひんやりとした空気と、焼きたての黒パンの匂いが流れてきた。
その匂いを嗅いだ瞬間、ようやく今日が終わるのだと思った。
壁から冷たい風を送り出す通風口を見つけたイヴォンヌは、目を輝かせた。
「ディアーナ様は転生者ね。これは前世の冷房を再現しているわ!」
「転生…?」
よく分からないが、イヴォンヌは大興奮だった。
元々ディアーナ姉様の実家のブランドン公爵家のメイドだったテレサとミラが大喜びで迎えてくれ、すぐに夕食の支度をしてくれた。
私は焼きたての黒パンをちぎり、バターを載せた。
熱で黄色い塊がゆっくりと溶けていく。
誰も、禁書について聞かなかった。
誰も、怪物について説明を求めなかった。
フリッツがパン屑を散らし、イヴォンヌが冷たい風の出る壁を調べ、カイが黙ってスープを私の前へ寄せてくれた。
私は温かいものを食べた。
それだけで、少しずつ自分の身体へ戻ってくるような気がした。
砂漠にポツンとあるこの家には、王立魔術博物館からの追っ手は来れないはずだ。ディアーナ姉様が力づくで砂漠に動かしたこの邸宅は、魔法網から独立していた。私は心から安堵した。
カイが黒パンを食べながら、祖母の話をポツポツと始めた。
「アッシュクロフト家のある領地の中心には、鉄道が通り、菓子店やホテルが並んでいる。だけれど、今の街がまだ泥だらけだった頃を祖母は知っているんだ。最初の蜂蜜菓子も立派な店じゃなく、小さな厨房で焼かれたらしい」
カイは遠くを見るような目で、祖母から聞いた故郷の街の昔話を語った。
「たとえば、広場は昔は馬車の車輪が沈むような沼で、ホテルが建つ前は蜂箱が十二個置かれていただけだったとか、そんな話を聞くのが好きなんだ。アンバーミード村に祖母がいるんだけれてな、今度、ロミィにも会ってほしい」
「私が、ご家族に?」
「うん。祖母の菓子を食べてほしい」
胸がまた大きく鳴った。
——ご家族に会うとは、彼は、それがどんな意味を持つのか分かって言っているのだろうか。
ヴァイセンブルク帝国のアッシュクロフト侯爵家は、帝国最大の大地主だ。アンバーミード村にある本邸はアッシュクロフト宮殿と呼ばれるぐらいだ。
その領地収入は、時としてヴァイセンブルク皇帝個人の収入さえ凌駕するといわれている。
皇女の私をご実家に招待する行為がどういう意味か、カイは分かっているのだろうか。
「アッシュクロフト侯爵家のお婆様ですか。是非!」
「でかした、いいぞ!」
私の横で、イヴォンヌと霊獣リスが大喜びしていて、私はポカンとしていた。
けれど、それは確かに幸せな時間だった。
温かかった。
けれど、ふと思った。
鞄の中に、ノートがある。
私が書き写した、禁書の呪文。
あれを唱えたから、怪物は来た。
——エミリアの七十年は、私が奪ったのかもしれない。
燃やさなきゃ、と思った。
でも私は、ノートを閉じただけだった。




