11. こっちを見るんだ、俺がそばにいるから
「何か臭うぞ!」
香リスの霊獣フリッツは、私のずぶ濡れのモスリンのドレスの上で叫んだ。
長椅子は、五階の衣装室の窓の外に浮かんでいた。
隣に座るカイが、震える手で窓の中を指した。
アッシュクロフト家の紋章が金箔で刻まれた、パリの一流工房への特注品の指輪が私の目の前で揺れた。カイ・アッシュクロフトの震える指先は、最初はエミリアを指していると思った。
だが、違った。
時が止まったかのようだった。
衣装室には、灰色の怪物がいた。
一気に空気が変わったのを感じた。
「主……あれには近づくな」
フリッツは鼻をつまんで私に囁いた。
何かの臭いが充満しているらしい。霊獣にだけ感じる臭いだろう。
セント・エントン学院を卒業した、異次元に嫌なやつを私は知っている。高慢、陰湿、サイコパス的なその男は、理由を告げずに十三歳の私を振った。ハンサムなジュリアンだ。
だが、ジュリアンは背筋が凍るほどの恐怖を私に与えたわけではなかった。その男が与えたショックによって、私は引きこもってしまったが。
今、目の前の怪物は、私がこれまで感じたことのない恐怖を与えた。
人が与える恐怖を超えていた。
カイ・アッシュクロフトが叫んだ。部屋の中にいるエミリアに向かって。
「逃げろ、エミリア!」
だが、エミリアは腰が抜けたかのように床にヘタリ込んで動かなかった。みるみるうちに、エミリアの髪の毛が白くなり、肌がシワだらけになった。
「どうしたの、エミリア!?」
思わず、私も叫んでいた。
私の声に怪物が振り向いた。
そして、怪物は私をじっと見た。
その瞬間、恐怖で体が凍りついた。血の気が引くとはこういう事かと初めて知った。
ゾワゾワと背筋が凍るような寒気がした瞬間、カイ・アッシュクロフトの腕が私をそっと包んだ。
「こっちを見るんだ、ロミィ。俺がそばにいるから」
彼は私の顔をそっと自分に向けた。
私の心を射抜く様な青い瞳が、私を真剣に見つめていた。ブロンドの髪の奥の瞳は真剣だった。
「あの怪物の目を見るな」
彼は私に囁いた。
私は思わず頷いた。
蜂蜜入りの菓子を食べてから、ずいぶん時間が経ったかのように思ったが、私と彼は一度死にかけて生還した仲間になっていた。
「おい、お二人さん。俺も仲間だ。忘れるなよ」
フリッツが私たちの間へ割り込んだ。
「忘れていないよ」
カイはフリッツに囁いた。
「お前はあいつについて何か分かるか?」
フリッツは首を振った。
カイは私の肩を抱いたまま、怪物から目を離さなかった。
エミリアがうわごとのように何か言っている声が聞こえて、私はエミリアの方を見た。
「私に何かした?私の手がしわしわになったわ」
エミリアに変化が現れたのだ。
灰色の怪物の前には、エミリアと同じ豪華なシフォンのドレスをまとった老女がへたり込んでいた。
顔は深いしわに覆われ、栗色だった髪は真っ白になっていた。
「エミリア・デ・アルバ、お前から七十年を奪った。お前は皇女に酷いことをしたからね。人の価値を見た目だけで決めてきたお前に、最も恐れる姿を見せてやった」
そう怪物が言った。
私の方を見て怪物がニヤッと笑った。さらに、怪物は窓の外にいる私たちの方に近寄ってこようとした。
「そんなの知らねえ。臭いから、それ以上近寄るな」
霊獣フリッツが鼻を摘みながら怪物に言った。
「この匂い……ただの綻びの匂いじゃない。何か……腐ってるぜ」
フリッツは私に囁いた。ずっと霊獣香リスだけに臭っているようだ。
「魔法網が破られたか?」
フリッツはぶつぶつ言っている。
「歴代術式に綻びがあったのか?魔道具を使ってもあいつを消せない気がするぜ?」
フリッツの呟いていることは、全く私には理解できなかった。
その時、窓のカーテンの隙間に隠れている従姉妹のイヴォンヌの姿を見つけた。彼女の赤銅色の髪がチラッと見えたのだ。
——まず、イヴォンヌだけでも安全な場所へ逃がさなければ。
エミリアは泣いていた。
栗色の髪は白髪になり、振り乱され、エメラルドの瞳は涙が次から次に溢れていた。
エミリア・デ・アルバは、今朝私に生卵を投げつけて、私のモスリンのドレスを汚した。さらに、私を五階の窓から突き落とした。その罰として、怪物はエミリアの七十年を奪ってしまったようだ。因果応報なのかもしれないが、怖かった。少なくとも、怪物は罰を与えたいと思っているようだ。
エミリアは泣き叫んで、ヘタリ込んだまま、後ろに下がろうとした。
丸くて灰色の薄気味悪い怪物が、よろっとエミリアに少し近づいた。
「うぎゃっ!!」
「悪いことを続けるがいいさ。どうせ、あんたが行き着く先は…」
私は長椅子を無意識に動かしていた。
衣装室の窓のそばで怪物を指さしている従姉妹のイヴォンヌの手を取り、カイと一緒に長椅子に引き上げた。
ふわりと長椅子を動かして、イヴォンヌをゆっくりと庭に下ろした。
「ロミィ、あいつは何なの?あなた達が窓の外に突き落とされた後、いきなり現れたのよ。エミリアは急にお婆さんにされてしまったわ。まぁ、彼女がやったことは最悪な犯罪だけれど。とにかく、ロミィ、気をつけるのよ!」
イヴォンヌは私に囁いた。
私はイヴォンヌの手をしっかり握ると、「エミリアを助け出すわ」と囁き、また長椅子を空に浮かべた。
五階の衣装室の窓まで戻った。もう一度、勇気を出して、床にへたり込んでいるエミリアのそばに戻った。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい」
エミリアは消え入るような声で、泣きながら謝った。
「もう、悪いことしないから……許して……罰を与えないで……本当にごめんなさい」
「主、この小娘を助けてやる必要なんてないぞ」
霊獣フリッツは冷たい声で私に言った。
「シーっ!フリッツ!」
「カイ、手伝ってくださる?」
私はカイ・アッシュクロフトに頼んだ。
「分かった」
彼のブルーの瞳の奥の表情は読めなかったが、私と一緒にエミリアを長椅子に引き上げた。
途端に、怪物が飛びかかるようにしてエミリアを追ってきた。
「きゃっ!」
私は急いで飛ぶ長椅子を外に飛ばせた。怪物は空を飛べないようで、窓の外までは追っては来なかった。
そのまま地面にそっとエミリアを下ろした。
「誰か来て!」
「エミリアお嬢様!?」
メイドが声を聞き分けたのか、老女の姿になった主人のエミリアの元へ駆け寄った。彼女の豪華なドレスで分かったのだろう。
私は長椅子を急上昇させた。
衣装室は五階だ。窓から怪物はまだこちらを見ていた。
「フリッツ、あの怪物をどうしたら消せるかしら?」
「王立魔術博物館の闇の禁書には書いてあるはずだ。まず魔法結界を閉じるんだ」
私はズキンと胸の鼓動が鳴るのを感じた。嫌な感じだ。
——さっき、聖セレスティーヌ女学院の庭で、闇の禁書の一文を唱えて、フリッツを召喚したわ……。
——もしかして、私が何かしでかしたの?
私は真実に突き当たったようだと頭の隅で理解した。私は何かしでかしたのだ。目の前にいる霊獣フリッツを召喚しただけではない何かをしでかしたのだ。
術式は対になって記載されている。問と解の様に。つまり、起動と停止、召喚と送還のように、対になる形なのだ。だから、先ほど思い出した呪文の次の一文を唱えた。
紫の閃光が走った。大きな衝撃を受けて、私はカイの腕の中に倒れ込んだ。
「怪物が消えたよ!」
カイがそう叫ぶ嬉しそうな声が、一瞬聞こえた気がした。
目を開こうとしたが、視界が暗くなり、意識が遠のいた。カイの声が遠くなった。
私は意識を手放して、暗闇に落ちた。




