10. 婚約するんだから、君には無事でいてもらわないと
私たちは衣装室の窓から外を見ていた。
カイ・アッシュクロフトは窓を開けて、「いい天気だ」と呟いた。彼の瞳に心を射抜かれそうだが、これは恋心では決してないと思う。
誰かが走り込んできた。私は反応するのが、一瞬だけ遅れた。振り返ろうとしたその時、背中をドンと押された。
窓の外に体が押し出され、私は窓から落下した。
一瞬だけ、私の目には、エミリアの栗色の髪とエメラルドの瞳が映った。
——エミリア……!?
——今、私を押したわよね?
——でも、それって殺人だから!
カイがとっさに身を乗り出し、私の足首をつかんだ。けれど勢いを止めきれず、彼の身体まで窓の外へ引きずり出された。カイの上着にフリッツが猛然と飛びかかるのが見えた。フリッツはカイを引き戻そうと、その上着へ飛びついたようだった。しかし、小さな身体で二人分の重さを支えられるはずもなかった。
私たちは皆もつれあうようにして、真っ逆さまに窓から外に落下した。
逆さまになった視界の中で、地面が恐ろしい速さで迫ってきた。
この瞬間、私は自分が飛ぶ長椅子を操れることをすっかり忘れていた。
死に直面して、何もかもがゆっくりと動くのが見えていた。
——死ぬわ……。
——このまま、あっけなく死ぬのね?
自分が窓から落下し、その後を追うようにカイも落ち、カイにしがみついたフリッツも落ちてくるのが分かった。イヴォンヌの悲鳴が聞こえた。
窓から覗き込むエミリアもまた、悲鳴を上げた。自分が熱を上げていたカイ・アッシュクロフトもまた窓から外に落ちてしまったから。
——何してるの?エミリア……。
——こんなにバカだと思わなかった……!
私たちは、確かに死んだと思った。
地面が頭に迫ってきたから。
地面へ激突する寸前、私の眼下に青い亀裂が走った。亀裂の向こうに大量の水が現れた。 私たちは地面ではなく、その大量の青い水の穴の中へ落ちた。
——えっ!?水?
水は青かった。青く見えた。
ザブン!
驚いて息を吸い込み、水を飲みこんでしまった。
——溺れるっ!
革命前夜の皇国のドレス姿の皇女15歳と、体にピッタリとした布をまとった生徒たちが同じ空間にいた。
後から知ったことだが、そこは約百五十年後の学校に造られた、飛び込み競技用のプールだった。
プールサイドにいた生徒たちが、一斉に悲鳴を上げた。
「撮影?」
「あの子、ドレス着てる!」
「リスが喋った!」
誰かが小さな板のようなものを私たちへ向けた。板の表面が光っていた。
——何、あれ。魔法道具?
「なんだこの水浸しの箱は!」
溺れかけたフリッツがブクブク沈みながらそう叫ぶのを聞いて、私はハッと我に返った。
——死んでいる場合じゃないわ。
「フリッツ!元に戻るわよ!」
一瞬で飛ぶ長椅子が現れた。
私とカイとフリッツは、飛ぶ長椅子によって水中から空中に引き上げられた。
カイはブロンドの髪をかき上げる心の余裕も無い様子で、私の長椅子に座り込んでいた。
「助かった!ロミィ嬢」
彼がそう囁くのが聞こえた。
——いえいえ、私を助けようとあなたも命を投げ出してくれたでしょう。
忘れないわ。
私はなぜか、カイを守りたいと思っていた。この時は。
私たちは、眼下に巨大な綺麗な水色の箱を見た。飛ぶ長椅子は、とてつもなく天井の高いアーチ型の屋根スレスレを旋回していた。
「ふざけやがって!我が主をよくもこんな目に……!あの小娘め、ただじゃ置かないからな!」
霊獣リスのフリッツが恨みがましく毒舌を吐くのを聞いた。私を窓から突き落としたエミリアに対してだろう。
——飛ぶ長椅子は、時空を越えるから、戻れるはず。
私は元の場所に戻りたいと願った。
私はこの時、何かが頭に引っかかったが、よく考える余裕がなかった。
術式の綻びに気づかなかった。
誰かが私たちを救おうとして、巨大な力を使って時空を超えたのだと思った。
遠い未来では、聖セレスティーヌ女学院にこんな巨大な水槽が造られるのだろうか。
濡れ髪のカイ・アッシュクロフトは、私の隣でずぶ濡れのまま呟いた。
「ここはまさか天国じゃないよね……?」
「違うと思うわ。私たち、生きているわ」
「本当に許せない!我が主になんてことをしてくれたんだ。何がなんでも仕返しをしたい」
香リスの霊獣フリッツは、ずぶ濡れで繰り返し叫んでいた。
私たちを救ったのは霊獣フリッツの力かもしれない。
その考えが頭をよぎった。
その瞬間、元の世界の衣装室の窓の外に長椅子が移動した。
時空を超えたようだ。これは私と飛ぶ長椅子の力だ。
でも、私が長椅子の事を忘れている時、水が出現して私たちの地面激突を防いでくれた。
だから、あの時私たちを救ったのは……。
落下する私たちの下に時空の穴を開けたのは——。
「こんな無茶をし過ぎていると、身が持たないよ?」
フリッツが言った。
目の前で丸い瞳を細くし、不満げに私を見つめている小さなリスを私は見つめた。
「フリッツ、仕返しするの?」
「今、考えているところ」
「ね、君は霊獣なの?喋るリスだよね?」
ずぶ濡れのカイ・アッシュクロフトが興味津々な表情でフリッツに話しかけた。
「おぉ、お前はかなり見所があるぞ。咄嗟にロミィを救おうとしたからな」
フリッツはご満悦な表情で濡れ髪のカイに言った。
——待って!?
——今、イヴォンヌとの取引の話を始めないでよ、フリッツ!?
私はハッとした。フリッツなら言いかねない。この霊獣香リスなら、私とカイを婚約させる密談をしていたことを言葉にしそうだ。
「ロミィと君は婚……「シーっ!フリッツ!!」」
私は必死でフリッツを遮った。ポカンと私を見上げるリスに、身振りで合図をした。
「へ?ロクセンハンナ家とアッシュクロフト家は婚……「シーっ!フリッツ!黙って!!今は仕返しの話でしょう」」
私は失敗したと思う。
この時、霊獣リスが得意げに婚約打診書の話をしようとしているのを黙らせようとして、フリッツの頭の中を仕返しの話に戻したのだから。
きゅうり入りのサンドイッチ仕返しぐらいでは、すまないだろう。
だって、私たちは死にかけたから。
エミリアがしでかした事は犯罪だ。
——霊獣香リスは、イヴォンヌの前世の上司に何をした?
前世から転移させてゴビンタン砂漠を彷徨わせるという罰を事もなげにやってのけた。
今、目の前の丸い瞳の霊獣は、どんぐりが無いかと探すような目線で、一瞬だけ目を瞑った。
「臭うぞ……この匂い、俺が出てきた穴と同じだ」
フリッツが急に鼻をつまんだ。
カイ・アッシュクロフトは思わず、私の肩を抱いた。異次元のモノを目にした時、彼が私を守ろうとするかのように。
「婚約するんだから、君には無事でいてもらわないと」
——今、何と言ったの?
カイはドサクサに紛れて凄い事を言った。
聞き返そうとしたその瞬間だった。
エミリアの悲鳴が響いた。
私たちは、衣装室のエミリアの隣にいたものに驚いた。
エミリアは腰を抜かしたかのようにひっくり返って、床にへたり込んだ。
「どういうこと!?」




