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第3話 チキン南蛮


猛烈に、腹が減っている。


まだまだ週の真ん中だというのに、僕の胃袋は完全にエネルギー切れを起こし助けを求めていた。とにかく、この苦しみから逃れるため、腹の虫が圧倒的ながっつりを要求している。

ああ、この要求は満たすことができるのだろうか?適当に丼屋にでも入って済ませるべきだったのではないか?形だけの不安を感じながら期待をこめて扉を開ける。


ガラガラ—―ッ


「いらっしゃいませ。お疲れ様です」


店主の千春さんが、飾らないいつもの笑顔で迎えてくれる。ど平日だということもあって、今夜の店内はいつもより静かでゆったりとしていた。


「お疲れ様。ハイボールを」


「はい、すぐお持ちしますね」


僕はおしぼりを受け取りながら空いているカウンターに座り、手際よく作られたハイボールで一口だけ喉を潤す。今夜の僕の思考は、「何をたべようか」「今日の気分はなんだ」という、空腹を満たすための選択がこの店でできるかどうか、だけでいっぱいだった。


さて、今夜のメインにふさわしい一皿は、と。メニューを眺める。この店に来るようになって、だいぶ馴染めてきただろうか。メニューの全貌もだいたい見えている。が、

胃袋の要求はとにかくがっつりしたものだ。からあげでもいい。ただ、この前食べたし、せっかくなら何か別の、今日という日にバシッとハマる決定的なものが欲しい。しかし、メニューをどれだけ眺めてもこれだ!という決定打が見つからない。余裕があるときなら贅沢な悩みと言って差し支えないだろう。選択に迷うということは、それだけ恵まれていると言えるのだ。若いころなんて何に金を使っていたのか、食事なんて腹を満たすことしか…いや、今はそうじゃない。講釈垂れる前にまずはメシだ。腹だ。いっそのことメニューが1つしかなければこんなに悩むことはないのに…。…くっ。


「な、何か軽いものでもご用意しましょうか?」


僕のただならぬ様子を察したのか、千春さんがカウンター越しに声をかけてくれる。


「あ、いや……今日はとにかくがっつりしたものが食べたいんだけど、からあげはこの前食べたしなーと思って」


苦笑いしながら白状すると、千春さんは「なるほど」と小さく声をあげ、それから悪戯っぽく目を輝かせた。


「それなら良さん、メニューには載せていないんですけど『チキン南蛮』なんてどうでしょう?」


「え? できるんですか?」


「はい。あり合わせで作っちゃうからお店の味、とまではいかないかもですけど、お任せいただければ」


「それはありがたい。ぜひ、それでお願いします」


「いつもはできませんけど、今日はゆっくりしてるので特別です」


千春さんはそう言って自身たっぷりに目を輝かせる。こんな気の利いた真似をされたら、誰だってこの店に通いたくなってしまう。人柄だけでなく、料理の腕も確かなのだからあなどれない店だ。


『『ジュワァァア……』』


鶏肉の着水(着油?)を確認。やっぱり揚げ物は働く者の味方だ。鶏肉を油に入れたのち、目にも留まらぬ手際のよさでタルタルソースを作り始めている。

(ああ、家でこんな人が料理でもしてくれていたらどれだけ毎日が幸せなんだろうか。寄り道せずにまっすぐに帰っちゃうね)

なんて思いながらその姿を見ている。まあ、聞くところによると、いい人がいるらしいから、これはどこまでいったって妄想なのだ。そうなのだ。うん。


「それにしても良さんがそんなにお腹を空かせいてるなんて珍しいですね。忙しかったんですか?」


手際よく料理しながら、軽く話を振ってくれる。手持ち無沙汰にならないよう、当たり障りのない話しができるところもほんとに接客が上手いと思う。


「いや、実は今日、健康診断だったんですよ。だから昨日からロクなものを食べていなくて。小さなていこう」


「あぁ、なるほど! それはお腹が空くわけですね」


そんな何気ない会話を交わしている間に、酢の匂いがふわりと漂ってきた。唐揚げが揚がったか?まもなく幕開けだろう予想と期待が、さらに腹の虫を暴れさせる。


「お待たせしました。即席チキン南蛮です」


大皿が目の前に置かれる。


つややかな南蛮ダレが絡んだ大ぶりの鶏肉が5個(いつものからあげより少し大きめにしてくれているのか?)その上から、タルタルソースがこれでもか。と贅沢になだれ落ちている。


(おいおい……とんでもないもんが来やがった。さながら、甘酢の絡んだからあげのビーチと、皿から溢れるかというほどのタルタルソースのビッグウエーブ。これは陽気なサーファーの集まるビーチのようだ!健康診断明けの俺の胃袋には最高のバカンスだな!これは!)


箸を伸ばし、タルタルソースをたっぷりと乗せ、豪快に掴み上げて口に—―


ザクッッ――


甘酢にくぐらせてもなお、力強い歯ごたえの衣。そこから溢れ出る熱々の肉汁と、これでもかとかけられたタルタルソースが口の中に贅沢そのものを与えてくれる。


(うぉぉっ!ある意味想像通りではあるが、熱々のからあげを冷たいタルタルソースと合わせることで一気に口の中に入れられる。からあげとは違う、チキン南蛮ならではの楽しみ。店の味にはできないと言っていたが、甘酢にくぐらせてさっぱりさせた上でゆでたまごとマヨネーズの黄金タッグでコクを足し、さらに戦力を上げるために刻まれたらっきょ。これで完璧と言わないあたり、千春さんの料理に対するこだわりが伺える)


黒光りのマッチョが海の向こうから盛大に波に乗ってこっちを指さしている。


『――バカンスの幕開けだぁ!』


(……だれかっ!俺をとめてくれっ!腹が減っているから、なんてそんなもんじゃない。そんなに卑しい人間ではないだろう!からあげ、タルタル、かっさらっていく甘酢。この波状攻撃、押し寄せるビッグウエーブ。からあげの一つ一つもでかい。大きく開ける一口がこんなにも幸せだなんて、止まらない幸せ!終わらない夢!口の端についたタルタルも気にしていられない。いや、することができない!飲み込むことも後回しにし、タルタルにまみれさせた唐揚げをさらに口の中へと運ぶ。わかっている…行儀なんてものは—―っ!ビーチにすべて脱ぎ捨ててやった!だとして、なんだこの正体は!なんだ、このビーチは!)


口の中が賑やかパーリナイ。お祭り騒ぎのビーチトゥナイ。うまく波に乗れなかった僕は海底に叩きつけられたかのように、ただただ旨さの中でもがくしかなかった。


(—―っ!あぶない。あやうくタルタルソースで溺れ死ぬところだった)


気付けばチキン南蛮が半分なくなっていた。ん?誰だ、食べたのは?—―わかっている。わかってはいるが、この罪悪感を直視することなんてできない。


「……千春さん、これ、めちゃくちゃ美味しいです。箸が止まらないんですけど、なんで?」


「あはは。それは良さん次第なんじゃないですか?ただ、タルタルソースにほんの少しだけ『カレーパウダー』を入れているんですよ。もしかしたらそのおかげかもしれないです」


「なるほど……カレーパウダーか。それで」


「良さん、そんなにお腹が空いていたんなら、少しご飯よそいましょうか?」


一気に半分以上食べてしまった姿を見て哀れに思ったのか、微笑みながらそう言ってくれる。


「えっ、いいんですか? 喜んでいただきます」


「はい、すぐお持ちしますね」


ほかほかの湯気を立てる白いご飯が、こんもりとお茶碗に盛られてやってきた。少し、とは?


(よし、ここから第2ラウンドの開幕か……!)


チキン南蛮とごはんの組み合わせなんて、想像しなくてもわかる。ああ、今日は存分に溺れさせてもらおう。僕の胃袋すべて捧げます。 心の中でそう呟きながら、ご飯とチキン南蛮を夢中になって口の中に押し込める。店の雰囲気もさることながら、ここまでしてくれる優しさがこの店の魅力だと知った。—―また来よう。そう思うのだった。

駅から少し離れた住宅街の片隅に、今夜も小さな灯りがともる。飾らないけど手間暇のかかった一皿。心地よい常連たちの人間ドラマ。一日の疲れを忘れ、ようやく自分と向き合える――。やっぱり、ここはいい店だ。


甘酢にびちゃびちゃより、タルタルと別で食べるのがすきです。

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