第2話 ポテトサラダ
駅から自宅までは、真っ直ぐ歩けば10分ほどの距離だ。
今日は仕事のトラブルに追われ、久しぶりにたっぷり疲れてしまった。疲れてはいるが、まっすぐ帰らず遠回りしている—―。のには理由があった。
住宅街の暗がりの中でぽつりと揺れるお馴染みの赤提灯――『居酒屋 万彩』が見えると、一人なのにふと、笑顔を見せてしまう。
ガラガラ—―ッとやけに大きい音をたてながら店の扉を開ける。
「いらっしゃいませー!」
店主の千春さんが飾らないいつもの笑顔で迎えてくれる。
「ハイボールをお願い」
「はーい。すぐ入れますね」
一日中、理不尽な無茶振りと現場の調整に追われ疲れてしまった僕の口からは、ほとんど反射のようにその言葉が出ていた(そうでなくても、いつもハイボールだが。)手際よく入れてくれたハイボールを受け取り、勢いよく喉に流し込む。炭酸の鋭い刺激が、沈んでいた思考を起こしてくれる。
「――ふうっ」
全身に染みわたる水分と、アルコールが疲れ切った思考をほぐしてくれる。
さて、今夜は何を食べようか。僕は卓上のメニューに目を落とす。この店に来るようになって、今日で何回目だろうか。特にこれといったものがなかったのでホワイトボードにあるおすすめをあれこれと眺めていたが、今夜はなんだか決断力がない。
「千春さん、とりあえず……ポテトサラダをください」
気がつけば、メニューの隅にあったそれを頼んでいた。
実は、これまでこの店でポテサラを頼んだことは一度もなかった。嫌いというわけでもないのだが、他にも魅力的な料理がたくさんある店だ。どこにでもある定番メニューをわざわざ頼む必要もないだろうと、無意識のうちに避けていたのだ。
だが、疲れて余裕がなかった今、何も考えなくていい王道の定番を選んだのは自然だったのかもしれない。
「はい、ポテトサラダですね」
そういえば、ポテトサラダというのは、居酒屋の定番でありながら、その個性を楽しめるものなのかもしれない。
家庭サイズでも、きゅうり、人参、たまねぎは想像できるとして、肉系はどうするか(ハム、ベーコン、ソーセージ)、あるいは果物を入れる所もあるかもしれない。おしゃれなお店ではアンチョビなんてものを入れたりするらしい。安易に、個性を楽しめるもの。と言ったが、それは、どんな食材でも受け止めることができるポテサラの懐の深さがあってこそなのだろう。
ふと母のことを思い出す。母の作るポテトサラダはどんなだったか。もしかしたら家庭の味、なんてものがうちにもあるかもしれない。ひさしぶりに今度、母にそれとなく聞いてみようか。
「いやあ、源さん。最近のニュースを見たか?AIが何でも代わりにやってくれる時代らしいが、あんなものは人間の思考を停止させるだけだよ。地道に社会の流れを掴まないといかん」
今日もしげさんが徳利を傾けながら、熱っぽく語っている。
「AIだかアーアイだか知らんが、そんなに賢いなら今度の競馬の予想でもやらせてみろよ。第七レースの軸馬がどうしても決まらん」
げんさんが、焼酎のグラスを片手に競馬新聞を睨みつけていた。相変わらずしげさんの話しなど聞こうとする様子もない。
「おい、げんさん。しっかり日本のこと考えてるのか。来期の予算案なんて見てみろ……」
「予算ならこっちにも必要だよ。今週負けたら、来週のつまみが冷やっこだけになっちまう。明日の日本を作るのは明日の俺の懐だよ」
二人の、中身のない会話は、ずっと考え事をしながら仕事に追われた僕にとって、心地のよいものだった。たしかに。AIで競馬予想して当てられたらそんなに楽なことはないだろう。と一人笑う。
「お待たせしました。ポテトサラダです」
千春さんの声とともに、ぽってりとした白い深皿が目の前に置かれる。
(ん?思ったより変哲のない感じか……?)
一見すると、どこにでもある普通のポテサラだが、よく見るとその佇まいはパット見より無骨にも見える
みた見はなめらかだが、ゴツゴツとした角も見える。男爵とメークインを合わせているのだろう。きゅうり、人参がいろどりを添えている。そして存在感を放つベーコン。1㎝角くらいか?やたらと赤い肉色が食欲を誘い出す。とにかく食べてみよう。話はそれからだ。
ほくっ――。
(うぉぉっ……! なんだこの信じられないほどのクリーミーさとジャガイモの存在感は! 男爵の力強い食感を、メークインが完璧な包容力で包み込んでいる。男爵のジャガイモ感を活かすごろっと感。メークインの舌触りを活かすなめらかなマッシュポテト。どちらの良さも引き立てながら、その二つを合わせるとは……あまりににくい演出だ。じゃがいもと言う、ありきたりな食材がここまで家庭に馴染み、大人になっても『ポテトサラダとは』について三者三様の意見があるのは、この料理がどこまで不器用でも、どこまで自由でも。正解なんてない。その無限の可能性を否定せず、最後まですべてを包み込んでくれる——。そう。ポテトサラダとは、みんなの母の味なのだ。)
まぶたの向こうで、優しく笑顔を向けてくれる母が見える。気がする。—―もう一口。今度は全てを味わうために大口でいただく。
ジャガイモのほくほく感。きゅうりのシャキシャキ感。人参は…まあ、人参だ。そこへ、厚切りベーコンのガツンとしたジューシーな旨味と塩気が、さらに主張を加速させる。
家庭料理としての地位を保ちながら、つまみとしての役割も果たせる。なんて仕事のできる料理なんだろう。しかし、咀嚼を進めるうちに、ジャガイモの甘みの奥から、さらなる深みを感じる。
(……待て。ん? この奥深い、優しい甘みはなんだ? 砂糖なんてわかりやすいものじゃない。もっと濃厚で、どこか懐かしい……。おいおい、この母ちゃん、しっかりしたパンチ(ベーコン)を持っていながら、裏ではこんなに深い優しさを見せてくれるのか……!)
エプロン姿でキッチンに立つ、夕陽を背にした母の姿が疲れた僕を励ましてくれる。
『――しっかり食べなさいよ!』
うまい!こんなにもシンプルな料理がどうしてここまでうまくなれる!じゃがいも、ベーコン、マヨネーズ、きゅうりの食感、味を引き立てる塩コショウ、そのすべてをポテトサラダという料理が完全に包み込んでくれている!母はどんな気持ちで料理してくれていたんだろうか?胸に抱かれて心地よく眠るあの頃が、薄らぼんやりと記憶を包んでいく——
(はっ。あぶない。思わず思い出から帰ってこられなくなるところだった……!?)
少し塩気の効いたベーコンを味わい、ここが居酒屋だということを思い出させてくれる。やさしいだけでなく、この塩気があってこそ酒が進むというものだ。冷えたハイボールをグイと煽る。完璧だ。
「……千春さん、このポテサラ、めちゃくちゃ美味しいです。普通のポテサラと違う。この滑らかさと、奥にある独特の甘みは一体なんなんですか?」
たまらず尋ねると、千春さんはカウンターの向こうで、嬉しそうに笑う。
「ふふ、気づいてくれました? 実は、ジャガイモは男爵だけじゃなくて、メークインも使ってます。メークインをマッシュするときに隠し味に『練乳』を混ぜているんですよ。ジャガイモ本来の甘みをさらに引き出してくれるんです」
「なるほど……練乳ですか。いや、うまい。定番だからこそ、そのひとてまが身に沁みます」
日々の忙しさから一歩外に出た場所にある、家庭的な料理。その安心感が僕の心を静かにほぐしてくれる。忙しかったけど、大変な仕事をやり遂げたときの達成感もたまにはいいものだ。たまには。
心遣いの嬉しいひと手間。店の雰囲気もさることながら美味しさに発見があるのもこの店の魅力だ。童心を思い出しながら母の懐の深さと、厳しさの中にあった優しさを、今ならわかる気がする。—―また来よう。そう思うのだった。
駅から少し離れた住宅街の片隅に、今夜も小さな灯りがともる。飾らないけど手間暇のかかった一皿。心地よい常連たちの人間ドラマ。一日の疲れを忘れ、ようやく自分と向き合える――。やっぱり、ここはいい店だ。
いままでポテサラに入っていて予想外な食材なんかはありましたか?よければおすすめや、外せない具があればおしえてください。




