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第一話 からあげ



駅から少し離れた住宅街の片隅に、今夜も小さな灯りがともる。飾らないけど手間暇かかった一皿。ここを愛する常連たちの人間ドラマ。一日の疲れを忘れ、ようやく自分と向き合える—―。そんな店がここにはあった。


「はい、良さん。ハイボールおかわりね」


この店の店主、千春ちはるさんから二杯目のジョッキを受け取り、ぐいと喉を鳴らす。一週間の疲れをこの一杯に集約されている。


「――ふう」


目の前には、すでに空っぽに近い冷やっことトマトスライス、そして数個の枝豆が並んでいる。さっぱりとした、瑞々しい先発隊のおつまみたち。これから来る「主役」を、引き立てるには素晴らしい布陣だ。—―なんてものは建前で、このようなヘルシーなつまみは、四十の男の、健康に対するささやかな抵抗であり、免罪符でもあった。


『『ジュワァァア……』』


心地よい音が響き渡り始めた。熱い油の海に飛び込み、美味しく化けていく音だ。僕はその音にじっと耳を澄ませる。ああ、この音は僕が注文したもののためだ。そうに違いない。と、誰の料理を作っているのか秘かに予想を立てる。


「最近の若いもんは、何でもかんでもスマホの画面ばかり見て。あれじゃあいかん。新聞を広げて社会の『潮流』を読まんと、本当の意味で現代社会に取り残される」


カウンターの少し離れた席で、茂充しげみつさんが、日本酒のグラスを片手に熱弁を振るっていた。彼はいつも新聞を広げ、最新のトレンド(ニュース)とやらを語っている。


「しげさん、んなこと言ったって世界は変わらねえんだからよ。それより明日のメインレースだよ」


その隣で、源一郎げんいちろうさんが焼酎のグラスを揺らしながら競馬新聞を睨みつけていた。彼は週末の競馬に本気で(ギャンブルに本気もなにもないとは思うが)賭けるのが趣味で、注文するつまみで勝ったかどうかわかりやすかったりする。


「おい、げんさん、人の話を聞けよ。政治の動向をだな……」


「おれの投票した馬が当選するなら政治だろうが選挙だろうが参加してやるよ。馬の動向の方が大事だ」


二人の不毛な会話に隣で座る富士子ふじこさんが、呆れたように小さく笑って、おちょこを置いた。


「あんたたち、せっかくおいしいごはんがあるんだから、少しは静かに飲みなさいよ。千春ちゃんが困るじゃない」


この店で一番お酒が強いふじこさんは、人当たりが良く、みんなの頼れる(気が強いとも言える)お姉さんだ。彼女がピシャリとたしなめると、しげさんもげんさんも、バツが悪そうに頭を掻いておとなしくなる。

週の半分以上はこの店にいるという、老人三人組のいつもの、とりとめのない日常のやり取り。僕はカウンターの端っこで、その賑やかさを心地よいBGMのように聞き流していた。直接その輪に深く入るわけではないけれど、彼らの楽しげな声が空間を満たしているだけで、一人の寂しさは綺麗に消えていく。この絶妙な距離感こそが、この店の心地よさだった。


「お待たせしました! からあげです」


(おいおい……とんでもない光景じゃあないか)


千春さんの弾んだ声とともに、目の前に皿が置かれる。

ドカン、と新鮮な油の海から上陸したのは、大ぶりの、見事な黄金色に輝くからあげ。立ち上る湯気とともに、油の香りが暴力的なまでの破壊力で僕の脳天を貫いた。


(見てくれよ!この無骨で、筋骨隆々のビジュアル。見ただけで伝わる衣の歯ごたえ。これはただのからあげじゃあない。数々の修羅場をくぐり抜け、後継の男共を鍛え上げてきた『鬼軍曹』だ! その分厚く鋼のような肉体の奥に、どれだけのうまい肉を仕込んでいるのか……!)


僕は箸を伸ばし、一つ、しっかりと掴み上げた。ずっしりとした重みと衣の硬さが箸先からも伝わる。フーフーと息を吹きかけ、期待感を最高潮に高め、そして—―


カリッっっ—―


静かな店内に響くほどの、完璧な破壊音。

その直後、閉じ込められていた熱々の肉汁が、文字通りジュワリと口いっぱいに、大爆発を起こした。


(うおっ!? 肉汁の集中砲火! なんてジューシーな、なんて物量でぇっ!)


食うとも味わうとも区別のつかない一口。その旨さだけが僕を支配していた。ああ、幸せだ。揚げ物はロマンだ。できることなら3食からあげでもいい。でもできないとわかっている。理解してしまっているのが大人になったことの弱さなのかもしれない。幸せと幸せと幸せに包まれながら箸を進めるうちに、違和感に気づいた。


(……ん? なんだこの旨さは。自分で作るからあげはもとより、居酒屋でイメージするようなのとは何かが決定的に違う。絶妙な衣の存在感?そうではない。このもも肉が、信じられないほど柔らかくてふっくらしている。塩気とニンニクのパンチがガツンと効いているのに、後味が驚くほど上品だ。そして肉自体の水分量も異常に多い。おいおい軍曹、ただの物量ゴリ押しじゃなくて、恐ろしく緻密な戦術を作ることができる策略家でもあるのか……!)


黄金色の軍曹が高々と手を掲げ、声を上げる。


『――大作戦の幕開けだ!』


止まらない!箸が!酒を飲む手が!止まらない!気持ちのいい食感、ガツンと来る塩気、押し寄せる肉汁、噛むごとに歯に幸せをくれる肉感、そしてすべてを押し流すお酒の波状攻撃。僕はそんな戦場のど真ん中でなすすべもなく、爆撃にさらされ続けるのだった—―。


(はっ。あぶない。今一瞬イキかけたかっ……!?)


かすむ脳を気合いでたたき起こし、すました顔で、だけど内心は震えながら、冷えたハイボールをグイッと煽った。少し氷がとけて炭酸とも言えないハイボールだったものが僕を少しずつ我に返してくれた。


「……千春さん、これ、めちゃくちゃ美味しいです。揚げ方がうまいだけじゃなくて、お肉が驚くほど柔らかいんだけど、いい肉でも使ってるんですか?」


「ふふ、気づいてくれました? 実は、下味を揉み込むときに、すり下ろした玉ねぎを混ぜて、お肉を柔らかくしているんです。」


「なるほど……、玉ねぎ。シャリアピンだか、シャリピアンだか、ステーキを柔らかくするときにしたりするやつですか」


丁寧なプロのひと手間。店の雰囲気もさることながら美味さに発見があるのもこの店の魅力だ。胃袋の中で暴れ回る鬼軍曹の「大作戦」に全面降伏しながら、また来よう。そう思うのだった。

駅から少し離れた住宅街の片隅に、今夜も小さな灯りがともる。飾らないけど手間暇のかかった一皿。心地よい常連たちの人間ドラマ。一日の疲れを忘れ、ようやく自分と向き合える――やっぱり、ここはいい店だ。

控えてしまいますが、たまには大量に揚げて食べたくなります。

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