第053幕 ――究極の代償と泥臭い道連れ――
深秋の、すべてが息絶えたような凍てつく夜の闇が、足利の街を深い底へと沈み込ませていた。
分厚い漆喰に守られた蔵の最深部。
ここにはもはや、生半可な音声波形の入る余地は一ミリも残されていなかった。
目の前に鎮座する肖像画から絶え間なく放たれる、気管支を灼き焦がすような生温かい熱量と、鼓膜を直接圧迫する絶対零度の静寂。 熱と極寒という相反する温度の層がモザイク状に絡み合い、空間そのものが鈍色にグニャリと歪んで不気味な軋みを上げている。
まるで、見えない巨大な真空の焼却炉の底で――いや、そんな比喩はどうでもいい。
新島誠一郎は、動かない。 彼は、これまで片時も外すことのなかった白練の鑑定手袋の指先を左手で掴み、無言のまま、ゆっくりと引き剥がし始めた。
ジリッ。
絹の繊維が、生身の皮膚から削がれる微小な軋み音。
ジリッ、ジリッ。
剥き出しになった彼の素手が、暗い大気を切り裂いて前へ伸び、錆色に変質したキャンバスの縁に真っ直ぐに触れた。 酸化した油の匂いが、彼の毛穴から直接侵入していく。
「……これを、公開する」
新島の声帯から押し出された低い波形が、冷たい静寂を打った。 私は左手の人差し指を、胸のポケットの奥へ滑らせた。 妻と交わした薄縹の日帰り旅行の切符。 その薄い紙の鋭い断面に指の腹を押し当て、執拗に擦り始めた。
スッ、スッ。
乾燥した皮膚が紙の繊維を削る、微小な摩擦音。
スッ、スッ、スッ。
私はなぜ、この取り返しのつかない破滅的な狂気を、彼と共に外界の光の下へと引きずり出そうとしているのか。 隠蔽された真実を歴史に刻み、芸術の真の価値を世界に証明するための、高潔な殉教者としての使命。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
スッ、スッ。
紙の断面を擦る乾いた摩擦音と、キャンバスから這い出す酸化した古い油の酸っぱい匂いがゼリー状の不快な塊となって鼻腔を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
高潔な殉教など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、自分一人が引き起こしたこの泥沼の責任をたった一人で背負い込む底知れぬ恐怖からただ全力で逃避し、新島という完璧だった男を同じ地獄へ引きずり込むことで、自分だけが破滅するわけではないのだと必死に安心したいだけなのだ。 他者の人生も現実の平穏もすべて道連れにして、自らの奥底で暴走を続ける卑小な怯えと孤独感を誤魔化したい。 己の醜悪で利己的なエゴを、この極寒の沈黙の中で無理やり正当化しようとしているに過ぎない。
私は切符を擦る反復動作を一切止めず、空いた右手をスーツのポケットの奥深くへ沈み込ませた。 冷たく硬い金属の感触。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に深く引っ掛ける。
チッ。
ガラスと爪が擦れる乾いた音。
チッ、チッ。
「ああ。すべてを、光の下に引きずり出す」
私が音声波形を放ち、二つの物理的な振動が完全に交差した、その瞬間だった。
「ガ、あ……ッ、アアアァァッ!」
脳の奥深くに、無数の鋭利なガラス繊維が一斉に弾け飛ぶような、凄まじい摩擦熱が爆ぜた。 眼球の裏側から延髄にかけて、煮えたぎる鉛を直接流し込まれたような痛覚が駆け抜ける。 頭蓋骨の内側で、これまで私を構成していた日常の記憶や、他者の体温を認知する神経回路が、チリチリと黒い煙を上げて物理的に焼き切られていく。 視界が激しく明滅し、平衡感覚が完全に消失する。 膝の関節が自重を支えきれなくなり、私は黒橡の泥の床へ向かって崩れ折れた。
チッ、チッ、チッ。
右手の爪がガラスの亀裂を削る速度が、脳髄の沸騰に比例して勝手に跳ね上がる。 爪の裏側の肉が剥がれ、血が滲む。
「はは……、はははははッ!」
私は、頭蓋骨を内側から焼き尽くされる極限の熱量の中で、過剰に分泌される唾液を撒き散らしながら、気管支から濁った呼気を爆発的に押し出し続けていた。 隣では、手袋を捨てた新島が、私と同じように眼球の毛細血管を異常に膨張させ、顔面筋を不規則に痙攣させながら、瞬きすら忘れてキャンバスを凝視している。
深秋の冷たい闇と、絵の具から噴き出す生温かい熱波が混ざり合う泥の底。 私たちは脳髄を焦がす痛覚の暴走と、気道を塞ぐ鉄錆の悪臭の中で、ただガラスを引っ掻く単調な摩擦音と濁った呼気だけを、永遠に等しい周期でこの閉鎖された空間に響かせ続けていた。




