第052幕 ――絶対零度の静寂と泥臭い道連れ――
夜半の秋の凍てつくような冷気が、分厚い漆喰壁の向こう側で足利の街を深い底へと沈み込ませていた。
蔵の最深部。
つい先刻まで私と新島誠一郎の間に生じていた、息苦しいほどの思想の熱量と過剰燃焼の気配は、一粒の粒子すら残さずに空間から揮発し尽くしていた。
代わりにこの場所を満たしているのは、肺の奥底に吸い込むたびに水分が瞬時に結晶化し、気管支の粘膜を微細な針で突き刺すような絶対零度の静謐である。
まるで、巨大な液体窒素のタンクの底に——いや、そんな比喩はどうでもいい。
新島の口からは、もはや一切の波形が放出されていなかった。
彼の唇の隙間から細く吐き出される生温かい呼気だけが、外気に触れた瞬間に白く濁り、音もなく冷たい大気の中へ溶け落ちていく。
私は、左胸のポケットの裏地に触れ、その奥に収められた妻との薄縹の切符の縁を、左手の親指の腹でゆっくりとなぞり始めた。
スッ、スッ。
極度に乾燥した皮膚が、薄い紙の断面を擦る極小の摩擦音。
スッ、スッ、スッ。
鈍色の闇の奥から、未完成の肖像画の表面に定着した顔料の酸化する匂いと、古い油の酸っぱい粒子が、微かな気流に乗って私の鼻腔へと這い出してくる。
私はなぜ、彼と共にこのキャンバスを外界の光の下へ移動させるという、不可逆の決断を下そうとしているのか。
隠蔽された真実を歴史に刻み、芸術の価値を守り抜くという、高潔な殉教者としての使命。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
スッ、スッ。
紙の断面を擦る乾いた摩擦音と、鼻腔を突く古い油の酸っぱい匂いがゼリー状の不快な塊となって、思考の糸をあっさりと焼き切った。
高潔な殉教など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。
本当は、この取り返しのつかない泥沼をたった一人で背負い込む底知れぬ恐怖からただ全力で逃避し、新島という男を同じ地獄へ引きずり込むことで、自分だけが破滅するわけではないのだと必死に安心したいだけなのだ。
他者の人生を道連れにしてでも、自らの奥底で暴走を続ける卑小な怯えと孤独感を誤魔化したい。
己の醜悪なエゴを、この極寒の沈黙の中で無理やり正当化しようとしているに過ぎない。
新島の右手の指先が、不規則に動いた。
彼は、自らの左手を覆っていた白練の絹手袋の縫い目に爪を立て、その繊維を不規則な力で乱暴に引き剥がし始めた。
チリッ、チリッ。
絹の繊維が限界を超えて裂ける、微細で甲高い音。
チリッ、チリッ。
引き裂かれた白練の布地は、彼の指先から滑り落ち、黒橡の泥の床へと力なく落下した。
新島は、露出した生身の素手をゆっくりと前へ伸ばし、錆色に変色したキャンバスの木枠の縁に直接皮膚を押し当てた。
これまで外界のあらゆる不純物を拒絶し続けてきた彼の皮膚が、酸化した油と顔料の冷たい質量にじかに癒着していく。
「これを、外へ出せば」
新島の喉の奥から、極度に乾燥した気管を無理やり空気が通り抜けるような、掠れた摩擦音が漏れ出した。
「我々の気管支は、二度と元の空気を処理できなくなる」
スッ、スッ、スッ。
私の左手が切符の縁を削る速度は、彼の音声波形を受信しても一切変化しない。
私は空いた右手を、スーツの右ポケットの奥深くへと静かに沈め込んだ。
冷たく硬い金属の感触。
亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。
右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に深く引っ掛ける。
チッ。
ガラスと爪が擦れる乾いた音。
チッ、チッ。
私はその極寒の金属塊を掌の肉に深く食い込ませながら、気管の奥底で凍りつきそうになる大気の冷たさをそのまま胃の腑へと飲み込んだ。
そして、泥に塗れた新島の横顔に向けて、一切の音声波形を発生させることなく、ただ頸椎をゆっくりと縦に動かした。
スッ、スッ。 チッ、チッ。
紙を擦る音と、ガラスを引っ掻く音。
二つの全く異なる無意味な反復動作だけが、一切の熱を持たない絶対零度の静寂の底で、己の醜い逃避の欲求を覆い隠すように永遠に等しい周期を刻み続けていた。




