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第051幕 ――偽りの大義の崩壊と泥臭い優越感――

 秋の夜半の底知れぬ闇が、分厚い漆喰壁の向こうで足利の街を重く押し包んでいる。 蔵の最深部。 先刻まで二人の男の呼気から放たれ、空間を満たしていた過剰燃焼の息苦しい(いきぐるしい)熱波は、急激な速度で温度を奪われ、薄氷の張るような冷徹な大気へと変質し始めていた。 まるで、巨大な冷却炉の底に落とされた——いや、そんな比喩はどうでもいい。

 私の口から音声波形として放たれる事実の羅列が、目の前に立つ新島誠一郎の周囲の気圧を一段、また一段と削り落としていく。 鈍色(にびいろ)に澱む空間の底で、生温かい鉄錆の匂い(におい)が、

 シュウシュウ。

 と音を立てて揮発していく。

「私が母を守らねばならないのだ……。五十年前、この泥の底で尊厳を奪われた母を、これ以上……」 新島の声帯(せいたい)の震えは、不規則な摩擦音を含んでいた。 彼は白練(しろねり)のシルク手袋を嵌めた両手で、自らのスーツの袖口を執拗に握り込んでは放す往復運動を繰り返している。

 ギュッ、ギュッ。

 絹の繊維が極限まで引き伸ばされ、微細な悲鳴を上げる。

 ギュッ、ギュッ、ギュッ。

 私はなぜ、この男からすべての逃げ道を奪い、徹底的に追い詰めようとしているのか。 彼が固執する虚飾を破壊し、真実を直視させるための、冷徹な観測者としての責務。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。

 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。

 ギュッ、ギュッ。

 絹の繊維が軋む微細な悲鳴と、床の底から這い上がってくるカビの不快な臭気がゼリー状の塊となって鼻腔(びくう)を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。

 責務など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、自らの欲望が引き起こしたこの破滅的な状況から目を背け、安全な高みから私を裁こうとしたこの男を、同じ泥の底へと引きずり落として完膚なきまでに叩き潰したいだけなのだ。 彼が自らの大義名分を失い、無様に崩れ落ちる様を見下ろすことで、「泥に塗れたのは自分だけではない」と安心し、己の卑小な劣等感と怯え(おびえ)を誤魔化したいという、醜悪極まりないエゴが暴走しているに過ぎない。

 私は、左胸のポケットに指を滑らせた。 妻と交わした薄縹(うすはなだ)の切符の鋭い断面を、親指の腹でゆっくりとなぞる。

 スッ、スッ。

「新島。あなたはまだ、五十年前の幻影に向かって話しかけているのか」 乾燥した紙を擦る音だけが、急速に冷えていく大気の中で単調なリズムを刻む。

「私は、あなたのお母様にお会いしてきた」 「……何だと」 「彼女は、あなたの網膜(もうまく)に焼き付いているような、過去の泥の中で身動きが取れない弱者ではない」

 私は一歩、前へ踏み出した。

 革靴の底が土間を擦る乾いた音が響く。

「あの息苦しい(いきぐるしい)隔離の数年間も、すべて自らの足で歩き抜いた。あなたの母は、この激動の半世紀を生き抜いてきたのだ」 私は右手をスーツのポケットの奥底へ深く沈め込んだ。 極端に冷たく滑らかな金属の縁。 亀裂の入った、銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペ。 右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に深く引っ掛ける。

 チッ。

 ガラスと爪が擦れる微小な音。

 チッ、チッ。

「彼女はすでに、あの古い退学辞令を自らの手で江戸紫(えどむらさき)の袱紗の奥深くに封印した。彼女はとうに、この蔵の泥を一人で越えているのだ」

 新島の眼窩(がんか)の奥で、毛細血管(もうさいけっかん)が極端に収縮(しゅうしゅく)する。 彼の眼球(がんきゅう)の表面から水分が奪われ、薄い粘膜(ねんまく)眼瞼(がんけん)の裏を擦る微細な音が、私の鼓膜(こまく)に届くような錯覚を覚える。

「現実を見ろ、新島誠一郎。あなたが守りたかったのは、彼女ではない」

 チッ、チッ、チッ。

 爪がガラスを削る速度が勝手に上がる。

「あなたが真に恐れたのは、この蔵の泥が世に出ることで、自らが築き上げてきた磨き上げられた床や、糊の効いたシャツの襟元に汚点が飛び散ることだ。あなたは、自分の平穏な現実を脅かす黒橡(くろつるばみ)の泥を、ただ分厚いコンクリートの下へ隠したかった。……母という盾を使って、自らの足元を守りたかっただけなのだ」

「あ……、ちが、違う……ッ」

 新島の気管支(きかんし)の弁が硬直(こうちょく)し、空気が細く狭い気道(きどう)を無理やり通り抜ける乾いた摩擦音が鳴った。

 ギュッ。

 白練(しろねり)の手袋の繊維が、不自然な圧力に耐えきれず、一本、完全に弾け飛んだ。

 プツリ。

 微小な断裂音が、冷え切った空間に落ちる。 彼は、手袋を嵌めた両手から急速に力を抜き、腕を下方へとだらりと垂れ下げた。 膝の関節から滑液(かつえき)が失われたような鈍い軋みが生じ、彼の肉体は重力に抗うすべを持たず、黒橡(くろつるばみ)の泥の床へとゆっくりと崩れ折れていく。

 私は、銀鼠(ぎんねず)のルーペを右の(てのひら)に深く食い込ませたまま、土間へと沈み込んだ新島をただ冷徹に見下ろしていた。 息苦しい(いきぐるしい)ほどの熱量は完全に消え失せ、蔵の中は、耳が痛く(いたく)なるほどの絶対零度の静寂と、氷のような冷気だけが支配している。 右手の爪がガラスを削る単調な摩擦音だけが、一切の熱を持たない鈍色(にびいろ)の空間の底で、己の醜い優越感を隠蔽するように永遠に等しい周期を刻み続けていた。


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