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第050幕 ――偽りの正義と泥臭い逃避――

 秋気が深まる足利の夜。

 しかし、分厚い漆喰に閉ざされた蔵の最深部には、外界の冷気など一粒の粒子も入り込んではこない。

 未完成の肖像画の表面から絶え間なく揮発する酸化した油の匂い(におい)と、目の前に立つ新島誠一郎の毛穴から噴き出す異常な体温が狭い空間で衝突し、気圧が不規則に乱高下している。

 まるで、見えない巨大な焼却炉の底で――いや、そんな比喩はどうでもいい。

 酸素が極端に薄い。

 息を吸い込むたび、乾いた気管支(きかんし)粘膜(ねんまく)が擦れ合い、

 ヒュッ、ヒュッ。

 という摩擦音が喉の奥で鳴った。

 新島は、絵の具がこびりついたキャンバスの前に両腕を広げて立ちはだかっていた。

 彼の口から、肺の底に溜まった重い二酸化炭素が音声波形として押し出される。

「この絵の具の塊を、あの白く磨かれた壁の並ぶ建物へ運ぶことは、私が阻止する」

 彼は、両手に嵌めた白練(しろねり)の絹手袋の指先を、不自然な角度で内側に折り曲げている。

 ギチッ、ギチッ。

 絹の繊維が限界まで引き伸ばされ、互いに擦れ合って極めて微小な断裂音を立てる。

 ギチッ、ギチッ、ギチッ。

「あの男がキャンバスに塗りたくった泥は、この土間の下深くに埋め戻し、分厚いコンクリートで永遠に蓋をする。それがあの建物を取り仕切る私の役目だ」

 私は、右のポケットに沈む銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペを握り込み、親指の爪を斜めに走る亀裂の溝に深く食い込ませた。

 チッ。

 ガラスと爪が擦れる乾いた音。

 チッ、チッ。

 私はなぜ、これほどまでに執拗に彼を追い詰め、この禍々しいキャンバスを外界の光の下へ引きずり出そうとしているのか。

 隠蔽された真実を暴き、文化の欺瞞を打ち破るための、高潔な観測者としての使命。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。

 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。

 ギチッ、ギチッ。

 新島の手袋が軋む微細な繊維音と、キャンバスから這い出す酸化した油の酸っぱい匂い(におい)がゼリー状の不快な塊となって鼻腔(びくう)を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。

 高潔な使命など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。

 本当は、自らの欲望が引き起こしたこの取り返しのつかない泥沼の責任から全力で逃避し、安全な高みから私を見下ろしていたこの新島誠一郎という男を、同じ泥の中に引きずり落とすことで、「自分だけが汚れたわけではない」と必死に安心したいだけなのだ。

 他者を理不尽な泥で汚すことでしか、自らの奥底にこびりついた卑小な劣等感と怯え(おびえ)を誤魔化すことができないからだ。

「新島」

 私は爪の反復運動を止めず、過剰に分泌された唾液(だえき)を舌の根で無理やり飲み込んだ。

 口内に、錆びた硬貨を舐めたような強い鉄の味が滲む。

「お前は、絵の具の塊を土の下へ隠したいのではない」

 私の声帯(せいたい)の震えが、生温かい空気を切り裂いて新島の鼓膜(こまく)を直接叩く。

「お前は、この蔵の底から溢れ出す泥が、東京にあるお前の磨き上げられた大理石の床や、糊の効いたシャツの襟元に飛び散るのを極端に嫌がっているだけだ。自らの立つ足場が泥に塗れ、世間から浴びせられるフラッシュの光が消えることを、何よりも避けたがっている。お前が口にする『蓋をする』という行為は、ただ自らの靴底の汚れを必死に隠そうとする、ひどく個人的で狭い執着の産物でしかない」

 ギチッ。

 新島の指先で、絹の繊維が一本、完全に弾け飛んだ。

 彼の眼球の毛細血管(もうさいけっかん)が急激に膨張(ぼうちょう)し、白目がどす黒い赤に染まり上がっていく。

 瞬きの回数が極端に減少し、乾燥した眼瞼(がんけん)が眼球の表面にへばりついている。

 彼は何かを音声として放とうと口を半開きにしたが、声帯(せいたい)硬直(こうちょく)したまま空気の漏れる、

 ヒュース。

 という音しか作り出せなかった。

 顔面から血の気が引き、皮下組織の水分が瞬時に奪われたように皮膚が薄く骨格に張り付く。

 チッ、チッ、チッ。

 私の右手の爪がガラスの亀裂を削る速度が、新島の硬直(こうちょく)に比例して勝手に上がっていく。

 爪の裏側の肉が微小な摩擦熱で痛み(いたみ)始め、血が滲む。

「お前も私も、靴の裏にはすでにこの蔵の同じ泥がべったりとこびりついている」

 私はさらに一歩、新島との距離を詰めた。

 彼の吐き出す生温かい呼気(こき)と、私の体表面から発せられる熱が、半径数十センチの距離で直接混ざり合う。

 もはや、互いを隔てる防音ガラスの壁などどこにもない。

 私は、血の滲む指先でルーペを握りしめ、ただ絹の繊維が千切れる微小な音と、ガラスを削る摩擦音だけが交差するこの息苦しい(いきぐるしい)熱気の底で、彼からすべての呼吸(こきゅう)を奪い取るように、重く粘り気のある視線をその眼球へと突き刺し続けていた。


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