第049幕 ――思想的決戦と泥臭い敗北――
秋の夜長の底知れぬ闇が、分厚い漆喰の壁の外で足利の街をひっそりと包み込んでいる。
しかし、蔵の最深部には、秋の冷気など微塵も残されていなかった。
まるで、巨大な焼却炉の底で――いや、そんな比喩はどうでもいい。
肖像画から這い出した女の姿が泥に還り沈黙したのも束の間、今度は私と新島誠一郎の口から放たれる音声波形が、互いの不可視の重力となって激しく衝突し、空間の酸素をじりじりと灼き焦がしている。
三十七度前後のねっとりとした生温かい熱が再び蔵の底に満ち、気管支の粘膜にべったりと張り付いてきた。
「この狂気は、すべて光の下に引きずり出されねばならない」
私は、左胸のポケットに指を滑り込ませ、妻と交わした薄縹の切符の縁を、親指の腹で執拗になぞり始めた。
スッ、スッ。
乾燥した指先が薄い紙の断面を擦る、微小な摩擦音。
スッ、スッ、スッ。
私はなぜ、この極限の閉鎖空間で、彼に向かってすべてを暴露すると宣言しようとしているのか。 隠蔽された罪を明らかにし、真の芸術を歴史の光の下へと引きずり出すための、高潔な告発者としての使命。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
スッ、スッ。
紙の断面を擦る乾いた摩擦音と、キャンバスから這い出す酸化した古い油の酸っぱい匂いがゼリー状の不快な塊となって鼻腔を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
高潔な告発など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、あの蔵の底で無様に怯え、何もかもをコントロールできなかった自らの無力さからただ目を背けたいだけなのだ。
自分が引き起こしたこの破滅的な泥沼を「至高の芸術の誕生」という言葉で無理やりコーティングし、自分は高次元の観測者なのだと必死に思い込もうとする醜悪な防衛本能。 この男の圧倒的な現実の重みの前に立たされ、己の卑小な劣等感が暴走するのを、美しい理屈でどうにか覆い隠そうとしているに過ぎない。
「師匠がキャンバスに塗り込めた罪も、私がそれを観測しようとした業も、すべてを世に晒す。その暴露こそが、この泥を芸術として成立させる唯一の手立てだ」
私の声帯の震えは、一定の振幅を保ったまま生温かい空気の中へ押し出された。 私は、芸術が放つ熱量さえ提示すれば、いかなる現実の理屈も最終的には沈黙させられると計算していた。
だが、新島誠一郎の瞳に宿る硬質な光が、私の放った音声波形を空中で完全に圧殺した。
「笑わせるな」
新島の声は地を這うように低く、しかし蔵の空気をビリビリと震わせるほどの凄まじい密度と熱を持っていた。 「この数年間、我々がどれほどの消毒液の匂いを嗅ぎ続け、コンクリートの冷気に耐えながら、この現実の文化を死守してきたかを知りもしないで」
新島の足元へ、キャンバスから崩れ落ちた錆色の泥がじわじわと這い寄ろうとしている。 彼は自らの両手に嵌めた白練の鑑定手袋の指先を不自然な力で握り込み、互いの絹の繊維を執拗に擦り合わせた。
ギュッ、ギュッ。
絹が極限まで引き伸ばされ、微小な軋み音を立てる。
ギュッ、ギュッ、ギュッ。
「世界が未知の病に沈み、美術館の扉が閉ざされたあの息苦しい隔離の数年間。私はあらゆる非難を浴びながら泥水に這いつくばり、この空間を維持してきたのだ。文化を守るということは、理不尽な現実の苦痛から人々の精神を隔離する分厚い壁を維持し続けることに他ならない」
言葉の連打が、物理的な質量となって私の胸郭を真正面から打ち据える。
「師匠の罪と貴様の欲望が生み出したこの熱量は、現実の倫理を内側から腐敗させる猛毒だ。現実の痛みを伴わない安全圏から、他者の肉が焼ける匂いを嗅いでいた者が、安易に文化を語るな」
新島の鋭い視線が、私の右手に握られた銀鼠の鑑定用ルーペを真っ直ぐに射抜いた。
ドクン。
心臓が、肋骨の裏側で不規則に大きく跳ねた。 彼が背負っているのは、母親の尊厳を汚された個人の怒りなどという次元のものではなかった。 パンデミックの地獄から社会の平穏を防衛し抜いた、途方もない現実の重みだったのだ。
スッ、スッ。
私が切符の縁を擦る紙の音。
ギュッ、ギュッ。
新島が手袋を握り込む絹の軋み。 二つの異なる無意味なリズムが、熱気を帯びた蔵の底で完全に独立したまま鳴り続ける。
酸素が足りない。 私が放とうとしていた論理の波形は、彼の圧倒的な事実の重力の前に完全に押し潰され、声帯を震わせることすらできなかった。
私は舌の根元に滲む微かな鉄の味を飲み込みながら、心拍数の異常な上昇と、気道が極端に狭窄していく息苦しさの中、ただ新島の冷徹な瞳の前で、一歩、また一歩と退路を断たれていくのを物理的な圧迫感として受け入れ続けていた。




