第048幕 ――偽りの告発と泥臭い熱量の衝突――
夜寒の鋭い冷気が、分厚い漆喰に守られた蔵の最深部に音もなく沈殿している。 つい先刻までの、すべての音が凍りついたような静寂は、今や限界点を超えて軋みを上げていた。 まるで、極限まで引き絞られた巨大な――いや、そんな比喩はどうでもいい。
キャンバスから漏れ出す絵の具の油の匂いと、目の前に立つ新島誠一郎の毛穴から放たれる生温かい熱量が空間で衝突し、私の気管支の粘膜をじりじりと灼き焦がしている。
私は左胸のポケットに指を滑り込ませ、妻と交わした薄縹の切符の縁を、親指の腹で執拗になぞり始めた。
スッ、スッ。
乾燥した指先が薄い紙の断面を擦る、微小な摩擦音。
スッ、スッ、スッ。
私はなぜ、この極限の閉鎖空間で、彼に向かってすべてを暴露すると宣言しようとしているのか。 過去の隠蔽された罪を明らかにし、真の芸術を歴史の光の下へと引きずり出すための、高潔な告発者としての使命。 ……そうだ。社会的な建前としては完璧だ。 悲劇を終わらせるための正当な戦い。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
スッ、スッ。
紙の断面を擦る乾いた摩擦音と、キャンバスから這い出す古い油の酸っぱい匂いがゼリー状の不快な塊となって鼻腔を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
高潔な告発など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、自らの欲望が引き金となって師匠を死に追いやった決定的な罪悪感からただ全力で逃避し、その責任のすべてを「隠蔽しようとする新島」という悪役に転嫁することで、自分が安全圏にいる正当な人間だと必死に思い込みたいだけなのだ。 彼を論破し、泥沼に引きずり込むことでしか、自らの奥底で暴走を続ける卑小な怯えと劣等感を誤魔化すことができないからだ。 己の卑怯さを、この紙片と正義の仮面で無理やり覆い隠そうとしているに過ぎない。
「これを、すべて世に晒す」
私はなぞる動作を止めず、右手をスーツのポケットの奥深くへねじ込んだ。 冷たく滑らかな金属の縁。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に深く引っ掛ける。
チッ。
ガラスと爪が擦れる乾いた音。
私はその金属の塊を引きずり出し、新島に向かって真っ直ぐに突きつけた。
「金田誠一郎の残したこの絵の具の塊も、私がそれを搾取しようとしたこの手元の金属の傷も。すべてを光の下に引きずり出す」
新島の眼球の毛細血管が極度に収縮し、瞬きの回数が異常なまでに減少していた。 彼の顔面からは、母親の真実を知らされた直後の蒼白な強張りは完全に消え失せている。 代わりに彼の全身の筋肉は、重力に逆らうように垂直に硬直していた。
「狂人の戯言だ」
新島の喉仏が低く動き、空気を切り裂くような短い音声波形が私の鼓膜を直接叩き据えた。 彼は、白練の鑑定手袋を嵌めた右手を、私のルーペの視線を遮るように鋭く突き出した。
ギュッ、ギュッ。
新島が手袋の指先を不自然な力で握り込み、絹の繊維が互いに擦れ合って微小な軋み音を立てる。
ギュッ、ギュッ、ギュッ。
「この蔵の中で煮詰まった絵の具の塊を、現実の光の中に持ち込むことは許さない」
新島の吐き出す呼気が、蔵の冷たい大気と衝突して白い靄を生む。 「数年間、目に見えない脅威からこの国の美術館の扉を閉ざし、徹底的に消毒液の匂いを嗅ぎ続けながら、どうにか平穏を保ってきた。私の手にあるこの白練の繊維を、泥に塗れさせるわけにはいかないのだ」
言葉の波形が、物理的な質量と熱を持って激突する。
チッ、チッ。
私がルーペの亀裂を削るガラスの摩擦音。
ギュッ、ギュッ。
新島が手袋を握り込む絹の軋み音。 二つの異なる無意味なリズムが、生温かい熱気と極寒の冷気がモザイク状に入り混じる蔵の空間で、完全に独立したまま鳴り続ける。
「痛みを伴わない絵の具の羅列など、ただの空虚な染みだ!」 「他者の肉を削って塗りつけた油を、文化と呼ぶな!」
容赦のない、断定的な音声波形の応酬。 私たちの声帯が震えるたびに、蔵の中の酸素が急激に食い潰されていく。 舌の根元がカラカラに乾き、唾液腺から分泌された粘液が喉の奥に張り付く。
私は過剰に分泌された唾液を飲み込みながら、ただルーペの亀裂を引っ掻く微小な振動だけを、この息苦しい暗熱と冷気の交差点で、己の醜い逃避の欲求を叩きつけるように、ひたすらに鳴らし続けていた。




