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第047幕 ――絶対零度の静寂と泥臭いノイズ――

 秋の夜の冷気が、分厚い漆喰の壁を通して足利の街の輪郭を鋭角に削り取っている。 先刻までこの蔵の最深部で私の気管支(きかんし)を灼き焦がしていた鉄錆の悪臭(あくしゅう)は、嘘のように揮発し尽くしていた。

 網膜(もうまく)の裏で明滅していた群青色の残像が完全に消失し、後に残されたのは、鼓膜(こまく)の奥でキーンという高い耳鳴り(みみなり)を響かせる、絶対零度に近しい静寂だけだった。 空間を満たしているのは、皮膚表面から体温を均等に奪い去っていく、ひどく冷たくて重い大気である。

 私は、右の拳に握り込んでいた薄縹(うすはなだ)の紙片を、ゆっくりとスーツの左胸のポケットへと滑り込ませた。

 スッ、と。

 薄い紙がウールの裏地を擦る乾いた音が、この冷え切った空間に微かに響く。 私はそのポケットの表面を左手で軽く押さえながら、凍てつくような大気を肺の奥底まで深く吸い込んだ。

 冷気が気道(きどう)を通過するたび、肺胞(はいほう)の内壁が薄く収縮(しゅうしゅく)して微細な摩擦を生む。

 鈍色(にびいろ)に淀む闇の中、泥に塗れた未完成の肖像画を挟んで、二人の男が並び立っていた。 私と、新島誠一郎だ。 言葉の波形は一切交わされない。 極限まで冷え切った空気の層を縫って、ただ二人の浅い呼気(こき)のリズムだけが、黒橡(くろつるばみ)の闇へと吸い込まれていく。

 私は、新島の横顔を静かに見据えた。 彼の眼球(がんきゅう)毛細血管(もうさいけっかん)は極度に収縮(しゅうしゅく)し、瞬き(まばたき)の回数が異常なまでに減少している。 網膜(もうまく)の表面が乾燥(かんそう)しきっているにもかかわらず、その視線はただ前方の一点――闇に沈むキャンバスの中央――に冷たく固定されていた。

 新島は、泥にまみれた白練(しろねり)の鑑定手袋を嵌めた両手を静かに胸の前に持ち上げると、その汚れた指先で、反対の手の手袋の繊維を執拗に撫で始めた。

 ズリッ、ズリッ。

 泥と絹が擦れ合い、微小な砂粒が繊維を削る音。

 ズリッ、ズリッ、ズリッ。

 新島の喉仏(のどぼとけ)が不規則に上下し、

 ヒュッ、

 という細い吸気音(きゅうきおん)が響く。 彼はその反復動作の速度を一切変えず、私の存在を視界の端から完全に締め出しているかのように、ただ泥の擦れる鈍い音だけを鳴らし続けていた。

 私は、左胸のポケットの布地を外側から人差し指の腹でなぞりながら、空いた右手をスーツの右ポケットの底へと滑らせた。 指先が、冷え切った金属の塊に触れる。 亀裂の入った、銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペ。 私はそれをポケットの中で握り込み、右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に引っ掛けた。

 チッ。

 ガラスと爪が擦れる乾いた音。

 チッ、チッ。

 新島が泥のついた手袋を擦る「ズリッ」という鈍い音と、私がルーペの亀裂を引っ掻く「チッ」という鋭い音。 二つの全く異なる無意味なリズムが、一切の熱を持たない絶対零度の静寂の中で、完全に独立したまま鳴り響く。 私は、肺胞(はいほう)が凍りつくような冷たい大気をただ一定の周期で吸い込みながら、ポケットの中で金属と爪が擦れる微小な振動だけを、この鈍色(にびいろ)の空間の底でひたすらに反復し続けていた。


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