第046幕 ――自我の融解と泥臭い逃避――
秋の暮の闇が、足利の街を深い影で覆い尽くそうとしている。 だが、分厚い漆喰壁の内側に密封された蔵の最深部は、外の気配とは完全に断絶していた。 空気の密度が不均一に狂い、耳を塞いでも頭蓋骨の内部で直接鳴り響く低周波の振動が空間を支配している。 上下左右から内臓を押し潰す目に見えない鉛の重圧と、鼻腔の粘膜にべったりと張り付く鉄錆と腐肉の甘ったるい微粒子。
まるで、巨大な真空ポンプの底で――いや、そんな比喩はどうでもいい。
泥の床に這いつくばる私の眼前に、キャンバスから抜け出した女の輪郭が迫る。 その輪郭が私の網膜のピントに合った瞬間、右目の奥で無数のガラス片が弾け飛ぶような鋭い摩擦熱が発生した。
「が、あぁッ……!」
視神経を通じて、群青色の光の束が脳の皺の隙間へ直接流れ込んでくる。 血管内の鉄分が急激に酸化して沸騰するような強烈な幻痛。 私は、左手の人差し指で自身のこめかみを一定のリズムで執拗に引っ掻き続けた。
ガリッ、ガリッ。
皮膚が削れ、微小な血が滲む音。
ガリッ、ガリッ、ガリッ。
私はなぜ、自我がドロドロに融解していくこの極限の苦痛に耐え、泥の中で視線を上げようとしているのか。 未知の芸術の真実を見極め、歴史の証人としての役割を全うする高潔な観測者の使命。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
ガリッ、ガリッ。
こめかみを引っ掻く鈍い痛みと、耳の奥で鳴る水中に沈められたようなボコボコという反響音がゼリー状の不快な塊となって、思考の糸をあっさりと焼き切った。
高潔な使命など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、この理不尽な異常空間で自分が消滅してしまう圧倒的な恐怖からただ逃避し、東京の安全な無菌室の平穏な日常へどうにかして這い戻りたいだけなのだ。 芸術の完成や他者の犠牲などどうでもいい。 ただ自分が泥に塗れて終わる怯えを誤魔化し、安全圏にいる勝者としての自分を必死に保ちたいという、醜悪で利己的なエゴが暴れているに過ぎない。
泥に塗れた私の右手が、重力に逆らってスーツの左胸のポケットへ滑り込む。 血流を失い、白く変色して硬直した指先が、一枚の薄っぺらな紙片に触れた。 妻・由佳と交わした、薄縹の「春の日帰り旅行の切符」。 私はその紙の鋭い断面に親指の爪を深く食い込ませ、表面の微細な凹凸を執拗に擦り始めた。
スッ、スッ。
乾燥した紙の繊維と爪が擦れる、極めて微小な摩擦音。
スッ、スッ、スッ。
その単調なリズムに意識の焦点を極限まで絞り込む。
瞬間。 私の肺の底にこびりついていた鉄錆の匂いが、春のアスファルトの乾いた匂いへと唐突に置き換わった。
気管支を塞いでいた生温かいゼリー状の粘液が、シュウシュウと音を立てて急激に揮発していく。 視界に溢れていた群青色の光の束が、中心から急速に色を失い、白黒の砂嵐へと分解されていく。 頭蓋骨を締め付けていた重圧がフッと抜け落ち、首の筋肉から不自然に力が抜けた。 私の視点は、這いつくばる自身の肉体を天井の梁の高さから見下ろしているような、極端な角度のズレを感知した。
私は、泥の中からゆっくりと顔を上げた。 右目には、亀裂の入った銀鼠の鑑定用ルーペ。 その冷たいレンズの奥で、女の輪郭を構成する色の粒子が、パチパチと乾いた音を立てて剥がれ落ちている。 音声と口の動きの決定的なズレ。 光の不規則な屈折。 彼女の胡粉色の肌は、もはや私に熱を伝えることはない。
ただの酸化した顔料の塊となり、ドチャリ、ドチャリと重い音を立てて黒橡の泥の床へ崩れ落ちていく。 私は、左手で胸ポケットの布地を外側から一定の周期でなぞる微細な摩擦音だけを、この完全に温度を失った静寂の空間で、自らの醜い逃避の欲求を覆い隠すように単調に鳴らし続けていた。




