第045幕 ――偽りの正義と泥臭い逃避――
秋の声が、分厚いガラス窓の向こうで東京の夕暮れの輪郭を鋭角に切り取っていく。 まるで、世界全体が冷たい刃の底で――いや、そんな比喩はどうでもいい。 久松町。「新島アート」館長室。 天井の吹き出し口から二秒おきに絶え間なく降り注ぐ二十二度の無臭の風が、室内の酸素を均一に循環させている。 しかし、私のスーツの繊維の奥底に付着した、足利の蔵で吸い込んだあの鉄錆と腐肉の匂い粒子が、じんわりと体表面の温度を三十七度前後に引き上げ、冷え切った人工風の軌道に微小な乱れを生じさせていた。
紫黒のマホガニーのデスクを挟み、新島誠一郎の顔面筋は硬く引き攣り、まばたきの回数が極端に減少していた。 彼の声帯から、空調のモーター音を切り裂く低周波の音声波形が押し出される。 「……母がどのような音声波形を発しようと、私の判断の基準点は変わらない。あのキャンバスの塊を、この建物の内側へ入れることはない」
私は、左手の人差し指の腹で、スーツの太ももの生地を執拗に擦り続けた。
シュッ、シュッ。
乾燥した指の皮膚と上質なウールの繊維が擦れる、極めて微小な摩擦音。
シュッ、シュッ、シュッ。
私はなぜ、この密室で彼に師匠の残忍な真実を突きつけ、強引に言葉の刃を交えているのか。 隠蔽された事実を世に問い、芸術の真の価値を明らかにするための、高潔な告発者としての使命。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
シュッ、シュッ。
ウールを擦る乾いた摩擦音と、スーツに染み付いた腐肉の匂いがゼリー状の不快な塊となって鼻腔を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
高潔な告発など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、自分が引き起こした事態の責任や、足利の蔵で感じた圧倒的な狂気から逃避し、新島という男の拠り所を破壊することで「自分はまだ安全圏で主導権を握っている」と必死に思い込みたいだけなのだ。 他者の足元を崩し、泥沼に引きずり込むことでしか、私の奥底で暴走を続ける劣等感と怯えを誤魔化すことができないからだ。
私はその醜悪な動機を物理的ノイズで上書きするように、右手をスーツの内ポケットの奥深くへ滑り込ませた。 生成色に黄ばんだ数枚の便箋。 私はそれをゆっくりと引きずり出し、二人の間を隔てる紫黒のデスクの表面へと滑らせた。
スザッ。
乾燥した紙片がマホガニーの天板の微細な凹凸を削る乾いた音が、秋の夕暮れの部屋の空気を硬く叩く。
「足利の蔵。あの肖像画の裏面に付着していた、金田誠一郎の筆跡です」 私の声帯の震えは、一定の振幅を保ったまま空間に放出された。 「『彼女の人生の座標を完全に破壊したことは認識している。あの絶望の表情のピクセルをキャンバスの表面に定着させるためには、彼女の社会的な呼吸を止め、永遠の生贄として固定するしかなかった。芸術の完成のためなら、他者の人生の継続など、まったく考慮の対象ではなかった』」
新島の顎の筋肉が、不自然な角度でピクリと跳ねた。 彼は白練のシルクの手袋を嵌めた両手をデスクの上に置き、その指先で生成色の便箋の縁を掴み上げた。 彼の眼球が、紙面に黒々と定着したインクの染みの羅列を左右に追跡する。
インクの染みが視神経を通過し、脳髄へ到達した瞬間。
新島の気管支の弁が、不規則に硬直した。
ヒュッ、ヒュッ。
空気が細く狭い気道を無理やり通り抜けようとする、乾いた摩擦音。
便箋の端を掴む白練の手袋の繊維が、微細な痙攣の波を打ってキシキシと軋み始める。 彼の指先の毛細血管から血流が急速に後退し、手袋の内側で関節が白くロックされていくのが、絹の表面の張りから読み取れた。
シュッ、シュッ。
私の左手がウールを擦る速度が変わらない。 私は空いた右手を、別のポケットの底へ沈めた。 冷たく滑らかな金属の縁。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 右手の親指の爪を、レンズを斜めに走る亀裂の溝に深く引っ掛ける。
チッ。
ガラスと爪が擦れる音。
チッ、チッ。
私はその冷え切った金属の質量を掌に深く食い込ませ、血流を白くせき止めた。
「正義も、母を守る理由も、ここには存在しない」 私は、気道を詰まらせている新島に向かって、ただ冷えた音声波形を撃ち込んだ。 「これは、互いの皮膚の裏側にある泥を晒し合うためのテーブルだ」
窓ガラスの向こうで、秋の夜の闇が東京のコンクリートを完全に呑み込もうとしている。
ヒュッ、ヒュッという新島の不規則な吸気音。
シュッ、という布地の摩擦音。
チッ、というガラスの削れる音。
三つの完全に独立した物理的ノイズが、空調の冷風が循環する部屋の底で、重力に逆らうことなく執拗に絡み合い、もはや後戻りのできない断層を空間に深く刻み込み続けていた。




