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第054幕 ――偽りの使命と永遠の摩擦――

 行く秋の冷え込んだ空気が、窓外の東京の街を静かに包み込んでいる。

 高級レストランのレセプションルーム。

 天井の吹き出し口からは、計算された風量の空気が絶え間なく降り注ぎ、ワイングラスの縁が触れ合う高い摩擦音と、アルコールの揮発する匂い(におい)が空間を循環している。

 まるで、巨大なガラスの培養槽の底に――いや、そんな比喩はどうでもいい。

 周囲の人間たちは、一斥染(いっこんぞめ)の液体が入ったグラスを揺らしながら、口元を不規則に開閉させて高い周波数の波形を放出し続けていた。

 彼らが吐き出す音声波形が私の鼓膜(こまく)を叩くたび、網膜(もうまく)に映る彼らの輪郭は光の粒子が乱れたようにぼやけ、鈍色(にびいろ)の染みとなって背景へ溶け落ちていく。

 私の肺胞(はいほう)が、この空間を満たす大気の成分を決定的に拒絶していた。

 空気を吸い込むたびに、気管支(きかんし)の内壁に微細なガラス片が突き刺さるような鋭い痛み(いたみ)が走り、

 ヒュッ、ヒュッ。

 という乾いた摩擦音が(のど)の奥で鳴る。

 私は左胸のポケットに指を滑らせ、そこに収まる薄縹(うすはなだ)の紙片の鋭い断面を、親指の腹で執拗になぞり始めた。

 スッ、スッ。

 乾燥した皮膚が紙の繊維を削る、微小な音。

 スッ、スッ、スッ。

 私はなぜ、この息苦しい(いきぐるしい)大気の底で、彼に向かって新たな記念美術館の設立を持ちかけようとしているのか。

 かつての凄惨な犠牲と失われた芸術を無駄にせず、文化の証として後世に語り継ぐための、生き残った者としての高潔な使命。

 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。

 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。

 スッ、スッ。

 紙の断面を削る乾いた摩擦音と、アルコールの揮発する匂い(におい)がゼリー状の不快な塊となって鼻腔(びくう)を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。

 高潔な使命など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。

 本当は、自分たちが引き起こしたあの蔵の底での凄惨な破滅と、そこから逃げ出したという底知れぬ罪悪感(ざいあくかん)からただ全力で逃避し、すべてを「記念美術館」という美しい記号で覆い隠すことで、自分がまだ正当な人間なのだと必死に思い込みたいだけなのだ。

 他者の犠牲を泥に沈め、自らの業から目を背けて、この安全な日常の側にしがみつきたいという、ひどく卑小で利己的なエゴが暴れ回っているに過ぎない。

 フロアの喧騒から数メートル離れた薄暗い壁際に、新島誠一郎が立っていた。

 彼の両手には、かつて外界の空気を遮断していた白い絹の繊維は存在しない。

 露出した素手の関節が、皮膚の下で不規則に蠢いている。

 彼の喉仏(のどぼとけ)が微細に上下し、周囲の空気を吸い込もうとして、ひどく浅い呼気(こき)を漏らしている。

 彼もまた、気道(きどう)がひきつり、大気を処理できずに細胞が軋む痛み(いたみ)に耐えているのだ。

 私は床の大理石を革靴の底で擦りながら、彼のもとへ歩み寄った。

 ズッ、ズッ。

「足利に、記念美術館を設立しましょう」。

 私の声帯(せいたい)から押し出された波形は極端に低く、周囲の喧騒の周波数とは完全に分離していた。

 新島の瞳の奥の毛細血管(もうさいけっかん)は極度に収縮(しゅうしゅく)し、瞬きの回数が極端に減っている。

 彼を囲んでいた空気の層が、さらに一段と冷たく重いものへと変質した。

 彼は口を開かず、ただ手にしたグラスをゆっくりと私の胸元へ向けて持ち上げた。

 私は左手の反復動作を一切止めず、空いた右手をスーツのポケットの奥底へと沈め込んだ。

 指先が、冷たく滑らかな金属の縁を捉える。

 亀裂の入った、銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペ。

 右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に深く引っ掛ける。

 チッ。

 ガラスと爪が擦れる乾いた音。

 チッ、チッ。

 一斥染(いっこんぞめ)の液体が揺れる新島のグラスの底に、あの足利の蔵の底で這い回っていた黒橡(くろつるばみ)の泥の影が、どす黒く澱んで反射している。

 チッ、チッ、チッ。

 私たちの周囲半径数十センチだけが、周囲の空気圧から完全に断絶されている。

 微細なガラスの摩擦音と、紙の断面を削る音だけが、耳鳴り(みみなり)のように響く。

 私たちは互いのグラスとルーペを微かに交差させたまま、気管支(きかんし)を灼く終わりのない息苦しさ(いきぐるしさ)と、肺胞(はいほう)が大気を拒絶する鈍い痛み(いたみ)だけを、この冷え切った大気の底で永遠に等しい周期で反復し続けていた。


 読了、ありがとうございます。 ……少しだけ、この物語に関する「楽屋裏」のはなしをさせてください。

 本作の舞台となった足利市は、私が大学時代に想いを寄せていた女性の故郷です。 私の別の作品『錆と蜜の箱庭』でヒロインとして描いた彼女と同じ人物です。

 本作の本来のタイトルは『画家物語』でした。 絵を描くことが好きだった彼女に影響されて自らも筆を執ろうとした自分と、 教師になりたいと夢見ていた自分。

 本作の薄暗い蔵の底で狂気を孕む「師匠」という存在は、 結局どちらの夢も叶えられなかった私の無力な残骸を重ね合わせて形創ったものです。

 しかし、この物語の本当の底に沈殿(ヘドロ)しているのは、さらに醜い感情です。

 実はあの時、私は己の感情を抑えきれず、彼女に想いを告げました。 結果として、その身勝手な告白は、ただ彼女に迷惑をかけただけで終わりました。

 私は自らの我執(エゴ)で彼女を困らせてしまったという罪悪感(ざいあくかん)に、 今日までずっと苛まれ(さいなまれ)ながら生きてきたのです。

 この物語に充満している息苦しい(いきぐるしい)ほどの泥と狂気は、 二度と会うことなど叶わない彼女に対し、それでも「許してほしい」と縋り付く、 私自身の惨めで身勝手な懺悔(ざんげ)そのものです。

 決して届かないと知りながら。

 私はキャンバスの代わりにこの物語へ、 己の拭い去れない未練(みれん)罪悪感(ざいあくかん)を塗りたくりました。

 このような不完全で泥臭い(どろくさい)私の懺悔(ざんげ)に、 貴重な時間を割いて最後まで付き合っていただき、本当にありがとうございました。

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