第043幕 ――絶対零度の怪異と泥臭い安堵――
晩秋の乾いた風が、足利の街の輪郭を硬く削り取って吹き抜けていく。
分厚い漆喰壁に閉ざされた蔵の前に、私と新島実咲は立っていた。
外界の空は高く澄み渡り、足元の土間を冷たい風が砂埃を巻き上げて通り過ぎていく。
しかし、実咲の頭部を中心とした半径数十センチの空間だけが、突如として周囲の気圧や大気の流れから完全に断絶し、不自然な陽炎を立てて歪み始めた。
まるで、見えない巨大な液体窒素の――いや、そんな比喩はどうでもいい。
彼女の細い髪を束ねている、五十年前の古い銀の髪留め。
その金属の表面から、白藍の微細な霜が爆発的な速度で増殖し、周囲の大気中に含まれる水分を一瞬にして細かい氷の結晶へと変えていく。
ピシッ、ピシッ。
大気が凍てつき、微小な氷の粒が土間へ落下して砕ける乾いた音が連続して響く。
実咲の口から、空気が漏れるような摩擦音が迸った。
彼女の頸動脈から急速に熱が奪われ、皮膚の表面が蝋のように白く硬直していく。
彼女の腕が不規則に跳ね上がり、自身の側頭部を乱暴な軌道で叩きつけた。
ドスッ、ドスッ。
私はなぜ、この異常な極寒の領域に手を伸ばし、彼女に触れようとしているのか。
自らが連れ込んだ同行者を保護し、事態を収拾するという、責任者としての当然の義務。
……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
ピシッ。
氷の粒が砕ける鋭い音と、凍てついた大気が鼻腔の粘膜を刺す痛みがゼリー状の不快な塊となって、思考の糸をあっさりと焼き切った。
責任者としての義務など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。
本当は、この理不尽な絶対零度の怪異が自分ではなく彼女を標的にしたことに底知れぬ安堵感を覚え、彼女が苦しむ様を間近で確認することで「自分だけは安全圏にいる」という事実を噛み締めたいだけなのだ。
他者を犠牲の防波堤として消費し、己の卑小な怯えを誤魔化そうとしている醜悪なエゴに過ぎない。
私は、白藍の霜に覆われた銀の髪留めへ右手の指の腹を押し当てた。
ジューッ。
肉が極低温で焼かれる音。
極端な冷気が、私の指先の皮膚の水分を瞬時に奪い、金属と皮膚の表面を強制的に癒着させる。
毛細血管内の血液が凍結し、白くせき止められる。
私は痛覚の信号が脳髄に到達する前に、腕の筋肉を強引に引き剥がした。
ビリッ。
右手の指先から、薄い皮膚の層が剥がれ落ち、金属の表面に白く張り付く。
神経の末端から、無数の針を突き立てられたような鋭い痛みがシナプスを駆け上がる。
私は剥き出しになった右手の指先を硬く握り込みながら、そのままスーツのポケットの奥深くへと手を沈め込んだ。
布地の摩擦音。
指先が、冷たく滑らかな金属の縁を捉える。
亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。
右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る亀裂の溝に引っ掛ける。
チッ、チッ。
ポケットの奥で、爪とガラスが擦れる乾いた音が鳴る。
チッ、チッ、チッ。
凍傷を負った指先の激痛と、火照りを奪う冷たい金属の質量。
実咲が自らの頭部を叩く鈍い音と、大気が凍りつくピシッという微小な破砕音。
相反する物理的なノイズが、土間の冷たい静寂の中で完全に独立したリズムを刻み続ける。
私は、自らの指先の血流をルーペの冷気で白くせき止めながら、白藍の結晶に覆われ、光の明滅と共に空間から物理的に削り取られていく彼女の輪郭を、ただ己の醜い安堵感とともに上から見下ろし続けていた。




