第042幕 ――偽りの同盟と泥臭い寄生――
暮秋の冷たく重い空気が、分厚いガラス窓の向こう側で東京のアスファルトを音もなく沈殿させている。 閑静な住宅街の路地裏。 古民家を改装した喫茶店の奥まった個室は、吹き出し口から一定のリズムで降り注ぐ二十二度の微風によって、空間の酸素濃度が均一に循環していた。 まるで、巨大な古い胃袋の底で――いや、そんな比喩はどうでもいい。 私が足利の蔵の底で吸い込み、スーツの繊維の奥深くにまで沁み込ませていた鉄錆と腐肉の匂い粒子は、向かいの席に端然と腰を下ろす老女――新島実咲の静かで深い呼吸の波形によって、個室の空気から一粒残らず完全に中和されているように錯覚した。
テーブルの中央に、私が提示した生成色に黄ばんだ数枚の便箋が置かれている。 実咲は、黒々とインクが定着した紙面へ真っ直ぐに視線を落としたまま、顔面筋を一切動かさず、まばたきの回数を極端に減らして文字の羅列を網膜へ入力し続けていた。 彼女の膝の上には、ひどく使い込まれた古い革の手帳が置かれている。 彼女の右手の親指の爪が、手帳の擦り切れた革の縁を執拗になぞり始めた。
スッ、スッ。
乾燥した皮膚が古い革を擦る、微細な摩擦音。
スッ、スッ、スッ。
手帳のページの間に挟まれた、黄朽葉色の薄い紙片。 五十年前、彼女の気管支から酸素を奪い取った退学辞令の写し。 実咲の喉仏が不規則に上下し、気道が微かに収縮する、
ヒュッ。
という細い吸気音が、個室の静寂を切り裂いた。
私はなぜ、この極端に静まり返った空間で、彼女が過去と直面する瞬間を黙って見届けているのか。 過去の因縁を断ち切り、共に前へ進むための、同盟者としての高潔な見届け。 歴史の目撃者としての誠実な態度。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。 悲劇を乗り越える強者を支える、理知的な協力者。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
スッ、スッ。
古い革を擦る微細な摩擦音と、冷めた珈琲から立ち上る微かな酸味がゼリー状の不快な塊となって鼻腔を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
高潔な見届けなど、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、自分が引き起こした惨劇の決定的な責任と底知れぬ罪悪感からただ全力で逃避し、この「過去を乗り越えた強い被害者」という圧倒的な大義名分を自らの盾として利用することで、自分がまだ正当な側にいるのだと必死に思い込みたいだけなのだ。 彼女が自ら過去を封印し、私を許容するような素振りを見せてくれなければ、私の奥底で暴走を続ける卑小な怯えと劣等感が、私自身を内側から喰い破ってしまうからだ。 他者の強靭な決意に寄生することでしか、己の卑怯さを誤魔化すことができない。
実咲は、ゆっくりと胸郭を膨らませ、肺胞の隅々にまで二十二度の清浄な空気を満たした。 そして、長く重い呼気を、テーブルの上の便箋に向けて静かに吐き出した。 彼女の手が動き、膝の上の手帳が開かれる。 黄朽葉色の紙片が、間接照明の光を反射して、
カサリ。
と乾いた音を立てた。 彼女は、その紙片の縁を両手の指の腹でしっかりと挟み込み、一直線に折り畳み始めた。
パキリ。
紙の繊維が折れ曲がり、強固な折り目が形成される。 彼女は傍らに置かれた鞄から江戸紫の袱紗を取り出し、その薄い絹の布地の奥深くへ、折り畳んだ紙片を完全に包み込んだ。 絹の摩擦音が鳴り、袱紗の紐が固く結ばれる。
キュッ。
「……これで、終わりです」 実咲の唇から押し出された音声波形が、個室の空気を微かに震わせた。 彼女の眼窩の奥の毛細血管には、未知のウイルスの蔓延や数々の年月を網膜に焼き付けてきた、ひどく硬質で冷ややかな光が定着している。
「誠一郎は、いつまでも私を過去の時間のままに固定しようとしている。彼はその幻想を維持するために、蔵の奥の絵の具の塊をも封じ込めようとしているのですね」 「はい。彼はあなたという存在を理由にして、自らの立ち位置から外れようとしています」 「愚かな子です。私がとうの昔に、あんな男の残したインクの染みなど越えているとも知らずに」
実咲は、紙片を封じ込めた江戸紫の袱紗を鞄の底へ滑り落とし、金属の留め金を、
カチン。
と鳴らして閉じた。 彼女の背筋が真っ直ぐに伸び、骨格が垂直に重力を支える。 「行きましょう。あの子の視界の歪みを、正さなければなりません」
私は、左手でカップの持ち手を弄りながら、右手をスーツのポケットの底深くへとねじ込んでいた。 布地が擦れる微かな音。 指先が、極端に冷たく滑らかな金属の縁を捉える。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に引っ掛ける。
チッ。
ポケットの奥で、爪とガラスが擦れる乾いた音が鳴る。
チッ、チッ。
実咲が立ち上がった瞬間、革張りの椅子が床の木目を擦り、
ギシッ。
という鈍い軋み音を立てた。 彼女の肉体が空間の空気を押し除け、空調の微風の軌道が大きく変化する。 私は、舌の裏側に滲む微かな唾液を飲み込みながら、ただ己の醜い寄生の欲求をひた隠しにするように、ポケットの中で金属と爪が擦れる微小な振動だけを、冷たく澄み切った大気の底で確実に鳴らし続けていた。




