第041幕 ――偽りの覚悟と泥臭い逃避――
秋陰の重い雲が、東京の空を低く覆い尽くしている。 まるで、都市全体が巨大な鉛の棺で――いや、そんな比喩はどうでもいい。
閑静な住宅街の路地裏に佇む、古民家を改装した喫茶店の奥まった個室。 室温は二十二度。 天井の吹き出し口から降り注ぐ空調の微風が、大正時代のアンティークランプの光を微かに揺らしている。 一気圧・酸素濃度二十一パーセントに固定された大気。
しかし、私のスーツの繊維の奥底からは、足利の蔵で吸い込んだ鉄錆と腐肉の匂いが、目に見えない重い粒子となって絶え間なく滲み出していた。
向かいの席に端然と腰を下ろしている老女――新島実咲は、私の放つその臭気を真っ向から浴びながらも、まばたき一つせずに私を見据えている。 彼女の静かで深い呼吸の周期が、この個室の酸素を重く、確かな質量のあるものへと変質させていた。
「金田先生が、亡くなりました」
私は、声帯を震わせてごく短く音声波形を放った。 同時に、スーツの内ポケットから生成色に黄ばんだ数枚の便箋を取り出し、分厚い一枚板のテーブルの上へと滑らせた。
スッ。
紙片が木目を擦る乾いた音。
「あの蔵の底で、未完成だった肖像画を完成させ……自ら首を」
私は便箋の縁を、左手の親指の腹で執拗になぞり始めた。
スッ、スッ。
乾燥した皮膚が古い紙の繊維を削る、微小な摩擦音。
スッ、スッ、スッ。
私はなぜ、この老女の前に自らの罪の証拠を晒し、同盟を求めようとしているのか。 過去の隠蔽された真実を直視し、芸術の真の価値と歴史的責任を明らかにするための、生き残った者としての冷徹な覚悟。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。 悲劇を背負う高潔な継承者。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
スッ、スッ。
便箋の縁を擦る乾いた摩擦音と、珈琲の香りに混じる鉄錆の幻臭がゼリー状の不快な塊となって鼻腔を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
高潔な覚悟など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、自らの欲望が引き金となって引き起こされた凄惨な破滅と死の責任からただ全力で逃避し、すべての罪をこの手紙を書いた金田誠一郎一人に押し付け、さらにはこの「最も重い被害者」である実咲を盾にすることで、自分が無傷の安全圏にいる正当な告発者だと必死に思い込みたいだけなのだ。 死者の狂気と生存者の権威を便利な防壁として利用し、自らの奥底にこびりついた卑小な怯えと劣等感を正当化しなければ、私自身がこの重圧に押し潰されてしまうからだ。 己の卑怯さを、この古い紙片で無理やり覆い隠そうとしているに過ぎない。
「これが、彼が遺した手紙です。五十年前のあなたに対する行いを知りながら、それでも『芸術を完成させるためには、彼女の人生を永遠の生贄にするしかなかった』と記してあります」
私は便箋をなぞる速度を一切変えず、ただインクの羅列を音声へと変換し続けた。
実咲の視線が、生成色の便箋の表面へと落ちた。 その瞬間、彼女の膝の上で組まれていた両手の指先が、不規則なリズムで動き始めた。 彼女の傍らに置かれた古い手帳。 その革表紙の端に、彼女の右手の親指の爪が深く食い込み、周囲の血流を白くせき止める。
ギュッ。
革が微かに軋む音。 彼女の喉仏が上下し、
ヒュッ、
という極端に細く鋭い吸気音が個室の空気を切り裂いた。 気管支が急速に収縮し、五十年前の古い大気が肺胞の奥で凍りついたかのように、彼女の呼吸の摩擦音が唐突に途切れる。
私は左手の反復動作を止めることなく、右手をスーツのポケットの底深くへと沈み込ませた。 布地が擦れる音。 指先が、極端に冷たく滑らかな金属の縁を捉える。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 私はそれを引きずり出し、テーブルの上、黄ばんだ手紙のすぐ横へと音を立てて置いた。
カツン。
硬い金属とガラスが木板にぶつかる鈍い音。 私は、ルーペのレンズを斜めに走る亀裂の溝に、右手の親指の爪を引っ掛けた。
チッ。
ガラスと爪が擦れる微小な音。
チッ、チッ。
左手で便箋の縁を削る音と、右手でガラスの亀裂を引っ掻く音。 二つの無意味なリズムが、珈琲の香りと鉄錆の幻臭が混ざり合うテーブルの上で、完全に独立したまま鳴り続ける。
「新島館長は、あなたを過去に置き去りにしたまま、すべてを白紙に戻そうとしています」
私は、ルーペの亀裂を引っ掻く爪の圧を強めた。
チッ、チッ、チッ。
「私は隠しません。この手紙の記述も、私がこの金属越しにすべてを削り取ろうとしていた事実も。すべてを光の下に引きずり出します。そのために、あなたにこのテーブルの向こう側へ立っていただきたい」
空調の微風が、テーブルの上の便箋の端を微かに持ち上げた。 実咲は古い手帳に爪を食い込ませたまま、硬直した気管支からゆっくりと、熱を帯びた重い呼気を吐き出した。
カチリ。
隣の席から漏れ聞こえる、ティーカップがソーサーに触れる微小な音。 私は、舌の根元に滲む微かな鉄の味を飲み込みながら、ただひたすらに、ガラスと紙を削る二つの摩擦音だけを、この張り詰めた一気圧の空間の底で鳴らし続けていた。




