第040幕 ――冷徹な覚悟と泥臭い逃避――
秋深し(あきふかし)の重い闇が、足利の街を音もなく沈殿させている。 分厚い漆喰壁に囲まれた蔵の最深部。 かつて私の肺を灼き焦がした三十七度前後の生温かい熱気も、気管支にこびりつく鉄錆の悪臭も、ここには一粒の粒子すら残されていない。 大気の流動が完全に停止し、皮膚の表面からあらゆる熱を均等に奪い去っていく絶対零度に近い冷気だけが、真空のように空間を支配している。 まるで、光すら届かない氷の地底湖の底に沈んだ巨大な――いや、そんな比喩はどうでもいい。
私は、冷え切った土間の上に倒れ伏していた。 鉛を流し込まれたように硬直した四肢は、関節の滑液が凍りついたかのように重く、ピクリとも動かない。 私は左手の人差し指の爪で、顔の横に散らばる乾燥した土を反復して引っ掻き続けていた。
ザッ、ザッ。
爪の間に乾いた土くれが食い込む微細な摩擦音。
ザッ、ザッ、ザッ。
喉の奥の粘膜が互いに張り付き、呼吸を試みるたびに、
ヒュッ、ヒュッ。
という乾いた音が鳴る。
虚ろな視界の端に、キャンバスの裏側に無造作に貼り付けられた封筒が見えた。 私は凍りついた右腕を無理やり引きずり、その封筒をもぎ取った。 中から引き出したのは、生成色に黄ばんだ数枚の便箋だった。 そこに黒々と書き殴られたインクの染みが、網膜に直接突き刺さる。 紙面に羅列された文字群を視神経が処理した瞬間、私の舌の根元から、大量の泥を無理やり押し込まれたような強烈な吐き気と土気色の味が込み上げてきた。 私は、便箋の鋭い縁を左手の親指の腹で執拗になぞり始めた。
スッ、スッ。
乾燥した皮膚が古い紙の繊維を擦る音。
スッ、スッ、スッ。
私はなぜ、この極寒の底で、死者の遺した手紙を握りしめ、再び立ち上がろうとしているのか。 過去の隠蔽された真実を直視し、芸術の真の価値と歴史的責任を明らかにするための、生き残った者としての冷徹な覚悟。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。 悲劇を背負う高潔な継承者。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
スッ、スッ。
便箋の縁を擦る乾いた摩擦音と、口内にへばりつく泥の味がゼリー状の不快な塊となって鼻腔を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
歴史的責任など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、自らの欲望が引き金となって引き起こされた凄惨な破滅と死の責任からただ全力で逃避し、すべての罪をこの手紙を書いた金田誠一郎一人に押し付けることで、自分が無傷の安全圏にいる傍観者に戻りたいだけなのだ。 死者の狂気を便利な盾として利用し、自らの奥底にこびりついた卑小な怯えと劣等感を正当化しなければ、私自身がこの重圧に押し潰されてしまうからだ。 己の卑怯さを、この古い紙片で無理やり覆い隠そうとしているに過ぎない。
便箋の文字が放つ黒いインクのノイズが、私の脳髄を直接叩き据える。 足利の蔵へ、若き助手を連れ込んだ私の手の感触。 東京の二十四度に設定された人工風の冷たさ。 それらの記憶が極彩色の斑点となって、冷え切った眼球の裏側でチカチカと明滅を繰り返す。 口内に充満する泥の味は、キャンバスに塗り込められていた泥と全く同じ成分だった。 私は泥を吐き出すことができず、ただ過剰に分泌される唾液と共にその粘り気を胃の腑へと飲み込み続けた。
スッ、スッ、スッ。
便箋の縁をなぞる指の動きが止まらない。 だが、その単調な摩擦音の連続の中で、私の気管支を締め付けていた見えない万力の圧が、不意にフッと抜け落ちた。 氷のように冷たく、一切の匂いを持たない蔵の空気が、何の抵抗も摩擦も生むことなく、肺胞の隅々にまで滑らかに行き渡っていく。
私は、生成色の便箋を乱暴に折り畳み、スーツの胸ポケットへと深くねじ込んだ。 そのまま右手を、スーツの右ポケットの底へと滑り込ませる。 指先が、極端に冷たい金属の感触を捉える。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 私は、親指の爪をレンズの表面を斜めに走る亀裂の溝に引っ掛けた。
チッ。
ガラスと爪が擦れる微小な音。
チッ、チッ。
私はその冷え切った金属の質量を掌に深く食い込ませ、右目に強く押し当てた。 亀裂の入ったレンズ越しに、闇の中に沈む肖像画の輪郭を真っ直ぐに見据える。 凍りついていた膝の関節が、
バキリ。
と鈍い音を立てた。 私は床の土を蹴り、ゆっくりと立ち上がった。
チッ、チッ。
ルーペの亀裂を引っ掻く音だけが、真空のような蔵の静寂の中で規則的なリズムを刻み続ける。 私は、一切の温度を失った冷徹な大気を深く吸い込み、冷たい土間を革靴の踵で硬く踏み鳴らしながら、ただ己の醜い逃避の欲求を胸に抱えたまま、重い漆喰の扉へと向かって歩みを進めた。




