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第039幕 ――偽りの継承と泥臭い逃避――

 秋霖の雨粒が、足利の鈍色(にびいろ)に澱んだ空から均等な速度で落下し、蔵の前の土間に冷たい水溜まりを無数に穿ち続けている。 まるで、見えない巨大なーーいや、そんな比喩はどうでもいい。

 かつてこの空間を満たしていた、気管支(きかんし)を灼くような生温かい熱気はもはや一粒の粒子すら残されていない。 肺の奥に吸い込む空気は絶対零度に近いほど冷たく、ひどく重い。 呼吸(こきゅう)をするたびに、粘り気のある冷たい泥を肺胞(はいほう)の隅々にまで直接流し込まれているかのような鈍い圧迫感(あっぱくかん)が、胸郭の裏側にへばりついている。

「――が、金田誠一郎氏の遺言となります」

 冷え切った土間の空気を震わせる、弁護士のひどく単調な音声波形。 その横に立つ三千子の顔面からは、皮下組織の水分が完全に抜け落ちたように皮膚が薄く骨に張り付き、眼瞼の周囲の筋肉が弛緩(しかん)しきっていた。 彼女の呼気(こき)は、土間の冷たい大気に触れても白く濁ることはなく、ただ無音のまま空間へと吸い込まれていく。

 弁護士の音声波形が、私の鼓膜(こまく)を一定の周期で叩く。 蔵の中に残されたすべてのカンバス、そして未完成の肖像画を含む、この蔵の管理と所有の全権を記した紙片。 三千子が、感情の抜け落ちたゆっくりとした動作で右手を差し出した。 私の手のひらに、音を立てて冷たい金属の塊が乗せられる。 長年の酸化によって錆色(さびいろ)に変色した、蔵の重い南京錠の鍵。 その極端な質量と冷気が、私の右手のひらの肉に深く食い込み、血流(けつりゅう)を瞬時に白くせき止めた。

 私はなぜ、この極限の重圧の中で、彼らの遺産であるこの冷たい金属塊を黙って受け取っているのか。 天才の遺した芸術を保護し、その真の価値を後世へと繋ぐための、選ばれし者としての重責。 歴史的遺産を守り抜くという高潔な使命。 ……そうだ。社会的な建前としては完璧だ。

 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。

 ピチャリ。

 雨粒が水溜まりを打つ単調な水音と、鍵から這い上がる酸化した鉄錆の鋭い匂い(におい)がゼリー状の不快な塊となって鼻腔(びくう)を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。

 遺産の保護など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、自らの行動が引き起こした凄惨な死と破滅的な結末への決定的な罪悪感(ざいあくかん)からただ逃避し、この「重責を背負った悲劇の継承者」という安全な記号の中に身を隠すことで、自分がまだ価値のある人間なのだと必死に思い込みたいだけなのだ。 他者の人生を泥に沈めた己の業の深さから目を背け、この冷たい金属の重みを言い訳にして、底知れぬ劣等感と怯え(おびえ)を無理やり覆い隠そうとしているに過ぎない。

 私は、左手の親指の腹で、その鍵の表面を覆う鋭い錆の凹凸をゆっくりと、執拗になぞり始めた。

 ザラッ。

 乾燥した皮膚が酸化した鉄と擦れ合う、微細な摩擦音。

 ザラッ、ザラッ。

 私の血管内で沸騰していたはずの熱は、この金属の圧倒的な冷たさの前に急速に蒸発し、指先から肩、そして背骨へと、コンクリートを流し込まれたような硬直(こうちょく)が広がっていく。

 ピチャリ、ピチャリ。

 という単調な雨音が、私の反復動作のリズムと完全に分離したまま、鼓膜(こまく)の表面にべったりと張り付いている。

 膝の関節から滑液(かつえき)が完全に失われたような、鈍い軋みが生じる。 大腿筋が自らの肉体の質量を支えきれず、足裏が濡れた土間の泥の中へとじわりと沈み込んでいく。 泥の冷気が、革靴の底から足首へと這い上がってくる。

 ザラッ、ザラッ。

 鍵の錆を削る指の動きが止まらない。 私は、鉛のように重くなった右腕を、スーツの右ポケットへ向けてわずかに持ち上げようとした。 布地の数センチ奥には、亀裂の入った銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペが冷たく沈んでいる。 しかし、私の指先はポケットの縁に触れる手前で、大気中の目に見えない重力に押し潰されたかのように、力なく下方へと垂れ下がった。

 ズッ。

 腕の布地が擦れる微かな音。 指先は布の表面を空しく滑り、ポケットの内側へ侵入するだけの推力を生み出さない。

 秋霖の冷たい雨が、私の肩と背中から体表面の熱を均等に奪い去っていく。

 ザラッ、ザラッ。

 私は手のひらに食い込む錆色(さびいろ)の鍵の質量と、左手が錆を削る微小な振動だけをこの鈍色(にびいろ)の静寂の中で反復し、ただ靴底を泥に呑み込まれながら、浅く不規則な呼吸(こきゅう)の摩擦音を喉の奥で鳴らし続けていた。


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