第038幕 ――責任転嫁と泥臭い逃避――
秋冷の風が、分厚いガラス窓の向こうで東京のコンクリートの輪郭を鋭く切り裂いている。 私は、高層マンションの自室のフローリングの上に立ち尽くしていた。 天井の吹き出し口からは、二秒おきに二十四度の人工的な冷風が降り注いでいる。 まるで、見えない巨大な――いや、そんな比喩はどうでもいい。
計算上、ここは一気圧・酸素濃度二十一パーセントの空間であるはずだ。 しかし、窓ガラスに映る鈍色の夜景は、私の体表面から噴き出し続ける異常な熱量によってグニャリと醜く歪み、部屋の酸素は薄く、息苦しく灼き焦がされていた。
数日前の、あの足利の斎場。 私の肺の奥底までを凍らせ、あらゆる感覚の信号を遮断していた分厚い真空の膜が、突如として内側からピシリと音を立てて砕け散った。
私はなぜ、この部屋で新島から送られてきた事務的な通知書類を握り潰そうとしているのか。 芸術を汚し、師を死に追いやった者への純粋な義憤。 文化の簒奪者に対する、高潔な抗議の意思。 ……そうだ。対外的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
ビリッ。
上質な紙の繊維が悲鳴のような乾いた音を立てて裂ける音と、インクの微かな酸の匂いがゼリー状の不快な塊となって鼻腔を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
高潔な抗議など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、師匠の死と、自らの行動が引き起こした凄惨な結末への強烈な罪悪感から逃避し、すべての責任を「新島」という悪役に転嫁することで、自分が安全圏にいる正当な人間だと必死に思い込みたいだけなのだ。 他者へ泥を投げつけることでしか、自らの奥底で暴走を続ける得体の知れない劣等感と怯えを塗り潰すことができないからだ。
直後、胃の腑の底から、極端な熱量を持ったどす黒い粘液の塊が、食道の粘膜を焼きながら喉の奥へと猛烈な勢いでせり上がってきた。 奥歯がギリギリと硬い音を立てて噛み合わさり、顎の筋肉が不自然な角度で硬直する。 頭蓋骨の裏側で、あの白練の手袋を嵌めた男――新島誠一郎の冷ややかな眼差しと、自らの首の血管を切り裂いた師匠の赤黒い飛沫が、不規則な明滅を繰り返して交差する。
ビリッ、ビバァッ。
私は両腕の筋肉を不規則に痙攣させながら、何度も、何度も、その白い紙片を力任せに引き裂き続けた。 繊維が千切れる微細な摩擦音が、部屋の息苦しい大気を暴力的に叩き割る。 紙の鋭い断面が指の腹から水分を奪い、微かな血が滲むが、痛みへの信号は脳髄へ届く前に極度の発熱によって焼き切られていた。 細かく引き裂かれた白練の破片が、足元のフローリングへと無数に散らばっていく。
私は左手の親指の爪を、手元に残った引き裂かれた紙の鋭い断面に強く押し当て、その繊維の綻びを執拗に抉り始めた。
ジッ、ジッ。
爪先が紙の層を削る、極めて微小な音。
ジッ、ジッ、ジッ。
私はその無意味な反復動作に意識の焦点を絞り込みながら、空いた右手をスーツのポケットの底深くへとねじ込んだ。 布地の摩擦音。 指先が、極端に冷たく滑らかな金属の縁を捉える。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 火照りきった右手の掌の肉に、その冷たい金属の質量を深く食い込ませる。 血流が白くせき止められ、鈍い圧迫感が指の関節から手首へと広がる。
「……新島ッ」
気管支の奥から、空気を乱暴に押し潰したような低周波の摩擦音が漏れた。 私の声帯の震えが、生温かい微熱の塊となって部屋の空気を揺らす。
ジッ、ジッ、ジッ。
左手の爪が紙の断面を抉る速度が勝手に上がっていく。 空調の冷風が私の火照った首筋を撫でるが、体表面の熱は一向に下がらない。 過剰に分泌された唾液が口内に溜まり、鉄を舐めたような強い金属の味が舌の根元に滲み出してきた。 私は、足元に散らばった白練の紙片を踏みつけながら、ただポケットの奥でルーペを握る右手の握力を限界まで強め、左手の爪で紙を削る乾いた摩擦音だけを、この酸素の薄い暗熱の空間に執拗に鳴らし続けていた。




