第037幕 ――真空の哀悼と泥臭い逃避――
新秋の冷たい風が、分厚いガラス窓の向こうで足利の街の輪郭を鋭角に削り取っている。 まるで、世界全体が目に見えない巨大な真空パックに――いや、そんな比喩はどうでもいい。
私は斎場の冷え切ったパイプ椅子に浅く腰を掛け、祭壇から真っ直ぐに立ち上る線香の灰色の煙の軌跡を、網膜の中心に固定し続けていた。 空間の酸素濃度や気圧は、計算上は周囲に群がる人間たちと同一のはずだ。 しかし、私の気管を通り抜ける大気は、肺胞の内壁で一切の摩擦や熱交換を起こさず、ただひたすらに冷たく乾燥したガスとして、単調に出入りを繰り返している。
足利の蔵の底で鼓膜を破らんばかりに渦巻いていた過剰燃焼の熱気も、鉄錆の悪臭も、ここには一粒の粒子すら残されていない。
私はなぜ、この極端に冷え切った真空のような空間で、黙然と祭壇を見つめ続けているのか。 不世出の天才の壮絶な最期を看取った者として、その魂の安寧を祈る厳粛なる哀悼の儀式。 歴史的な悲劇の証人としての、高潔な責務。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
グッ、グッ。
右手の親指の爪でパイプ椅子の座面の縁に巻かれた塩化ビニールの継ぎ目を押し込む局所的な圧覚と、線香の粉っぽい煙の匂いがゼリー状の不快な塊となって鼻腔を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
厳粛なる哀悼など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、自らの言葉が引き金となって彼を死に追いやったかもしれないという決定的な事実から目を背け、この「悲しむ参列者」という安全な記号の中に身を隠すことで、一切の責任と恐怖から逃避したいだけなのだ。 彼が死のうがどうでもいい。 ただ自分だけはこの真空地帯で泥を被ることなく、すべてが終わってくれたことに密かに安堵しているという醜悪なエゴを、この無音の葬列の中で無理やり正当化しようとしているに過ぎない。
祭壇の脇に並ぶ遺族たちの顔面からは、血液の赤みが完全に抜け落ちていた。 師匠の妻である三千子の眼球は極度に乾燥し、瞬きをするたびに薄い粘膜が眼瞼の裏を擦る微細な音が、私の鼓膜の奥で直接鳴っているかのように響いた。
彼女の傍らに立つ久武や知名の口の端が不規則な角度で引き攣り、顎の筋肉が微細な痙攣を繰り返している。 彼らの喉から時折漏れ出す呼気の摩擦音は、空気の振動として私の耳に届く前に、目に見えない真空の断層によって完全に吸収され、無音の波形となって網膜の裏側を滑り落ちていった。
「――」 「――、――」
背後に並ぶ、墨色の喪服の群れ。 美術界の人間たちの口元が、絶え間なく開閉を繰り返している。 彼らの声帯の震えが空気を押し出し、何事かを音声波形として放出しているのは分かる。 だが、その波形は私の脳髄へ届かない。 彼らが吐き出す二酸化炭素の混じった生温かい呼気と、私が肺に満たしている極寒の真空の間に、決定的な気圧の断層が引かれている。
グッ、グッ。
右手の爪がビニールを押し込む速度が、彼らの口元の開閉リズムと完全にずれたまま反復される。 私は、彼らが共有している大気と、私の周囲半径数十センチを囲い込む冷え切った大気との間に生じた決定的な断絶を、ただ皮膚表面の温度低下として処理し続けていた。
黒いスーツのスタッフの唇が動き、微かな摩擦音が届く。
私は膝の関節から滑液が失われたような鈍い軋みを感じながら、腰を上げた。 革靴の底がリノリウムの床を擦る。
ズッ、ズッ。
乾いた摩擦音が足元から骨伝導で頭蓋骨に響く。 スタッフから胡粉色の白菊を受け取る。 茎の断面から滲む微かな水分の冷たさと青臭さが指先に触れたが、温度の信号は手首のあたりで白く立ち消え、神経を駆け上がることはない。
祭壇へ進み、菊を無造作に置く。 見上げた先の遺影。 そこに収められた顔のピクセルが、私の網膜の奥で微細な黒橡のノイズとなって明滅している。
私は右手を、喪服のポケットの表面にそっと這わせた。 布地の裏側にある、亀裂の入った銀鼠の鑑定用ルーペの硬い輪郭。 私はポケットの奥へ指を滑り込ませることはせず、ただ外側から、その金属の縁の形状を人差し指の腹で反復してなぞった。
スッ、スッ。
ウールの繊維が擦れる微小な音。
スッ、スッ、スッ。
肺が機械的に膨張し、収縮する。 線香の灰が、音もなく崩れ落ちる。 私の周囲の空気は、いかなる匂いも熱量も運ばない。
ただ、右手がウールの生地をなぞる単調な摩擦音と、己の醜い安堵感だけが、一切の温度を奪われた真空の底で、永遠に等しい周期を刻み続けていた。




