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第036幕 ――凄惨な報告と泥臭い逃避――

 晩夏のまとわりつくような熱気が、分厚いガラス窓の向こうで東京のコンクリートジャングルを白く茹で上げている。 まるで、都市全体が目に見えない巨大な蒸し器の底に――いや、そんな比喩はどうでもいい。

 高層マンションの自室。 天井の吹き出し口からは、二秒おきに二十四度に設定された人工的な冷風が絶え間なく降り注いでいる。 しかし、私の鼻腔(びくう)の奥には、足利の蔵の底で吸い込んだ鉄錆と腐肉の悪臭(あくしゅう)が、ゼリー状の重い粘液(ねんえき)となってねっとりとへばりついていた。 空気を吸い込むたび、肺胞(はいほう)の内壁に微細な鉄の粒子が突き刺さり、

 ヒュッ、ヒュッ。

 という乾いた摩擦音が気管支(きかんし)の奥で鳴る。

 鈍色(にびいろ)に澱んだ部屋の静寂を、硬質な電子音が切り裂いた。 マホガニーのローテーブルの上に放り出されていた漆黒(しっこく)のスマートフォンが、無機質な振動を繰り返している。 私は、重力に逆らうようにして鉛のように重い腕を伸ばし、親指の腹で滑らかな液晶画面をスワイプした。

 ツッ。

 乾燥した皮膚がガラスの表面を擦る、微小な摩擦音。

 端末を耳に押し当てた瞬間、スピーカーから鼓膜(こまく)へ向かって、極端に高い周波数の摩擦音と、空気が漏れるような乱れた吸気音(きゅうきおん)がドロドロに混ざり合ったノイズが流れ込んできた。

『あの絵が……完成したの。でも、あの人、全身の血管が紫色に腫れ上がって……絵の具を塗った筆を握りしめたまま、自分の……自分の首を……ッ!』

 スピーカーの振動板を震わせる音声波形が、私の鼓膜(こまく)の表面に直接べったりと張り付いてくる。

 私はなぜ、この凄惨な報告を聞きながら、自らの膝から力が抜け落ちていくのを感じているのか。 天才の壮絶な最期を真摯に受け止め、至高の芸術が完成した歴史的瞬間に立ち会った者としての、厳粛なる哀悼と責任の受容。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。

 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。

 電話口から漏れ続ける高い周波数のノイズと、気管を塞ぐ鉄錆の幻臭(げんしゅう)がゼリー状の不快な塊となって、思考の糸をあっさりと焼き切った。

 厳粛なる哀悼など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、自らがけしかけた結果として引き起こされた他者の凄惨な死という決定的な事実から目を背け、ただ自分に降りかかるかもしれない責任と恐怖から全力で逃避したいだけなのだ。 師匠が血の海に沈もうが、芸術が完成しようがどうでもいい。 ただ自分だけはこの安全な東京の無菌室で、一切の泥を被ることなく無傷で生き延びたいという、ひどく卑小で利己的なエゴが暴れ回っているに過ぎない。

 私は、端末を握る左手の人差し指で、スマートフォンの冷たいアルミニウムのエッジを執拗になぞり始めた。

 ツッ、ツッ。

 金属の縁が、指先の水分を奪う。

 ツッ、ツッ、ツッ。

 首の血管が不気味に膨張(ぼうちょう)する映像、硬い刃が肉の繊維を断ち切る鈍い音。 それらの幻視と幻聴が、網膜(もうまく)の裏側で極彩色の斑点となって明滅し、視神経(ししんけい)を直接灼き焦がす。 私は左手の反復動作を一切止めず、ただ過剰に分泌された唾液(だえき)を舌の根元で無理やり飲み込んだ。 口の中に、硬貨を押し込まれたような強烈な鉄の味が滲み出す。

 私は空いた右手を、スーツのポケットの奥深くへと滑り込ませた。 布地の底で、指先が極端に冷たい金属の感触を捉える。 亀裂の入った、銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペ。 右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に引っ掛ける。

 チッ。

 ポケットの奥で、爪とガラスが擦れる乾いた音が鳴る。

 チッ、チッ。

 左手でスマートフォンのエッジをなぞる摩擦音と、右手でルーペの亀裂を引っ掻く摩擦音。 耳元から流れ込み続ける高い周波数のノイズと、気管支(きかんし)を完全に塞ぎつつある鉄錆の悪臭(あくしゅう)

 チッ、チッ、チッ。

 右手の爪がガラスを削る速度が、電話口のノイズの密度に比例して勝手に上がっていく。 爪の裏側の肉が微小な摩擦(ねつ)痛み(いたみ)始め、()が滲む。

 膝の関節から急激に体温が奪われ、大腿筋が自重を支えきれなくなる。 私は、両手に冷たい硬質な塊を強く握りしめたまま、無音でフローリングの床へと視界をスライドさせた。

 ドスッ。

 顔面が冷たい木目に打ち付けられる。 床の表面からも、ねっとりとした鉄錆の匂い(におい)が這い上がってくる。

 空調の吹き出し口から降り注ぐ二十四度の冷風が、私の背中から体温を均等に奪い去っていく。 窓外の都市の光が鈍色(にびいろ)の斑点となって網膜(もうまく)を滑り落ちていく中、私は顎を床に押し付けたまま、

 ヒュッ、ヒュッ。

 という浅く不規則な呼吸(こきゅう)を繰り返し、ただポケットの中で金属と爪が擦れる微小な振動だけを、この息苦しい(いきぐるしい)鈍色(にびいろ)の空間の底で、己の卑怯さを塗り潰すように永遠に等しい周期で鳴らし続けていた。


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