第035幕 ――理不尽な崩壊と泥臭い逃避――
残暑の外気から、分厚い漆喰壁によって完全に隔離された蔵の最深部。 上から見えない鉛の板を何枚も重ねられたような重圧が、私の頸椎と肋骨を不規則な角度にねじ曲げている。 まるで、深海の底で巨大な万力に――いや、そんな比喩はどうでもいい。
黒橡の泥が広がる床に顔の右半分を押し付けられたまま。 気管支を直接灼き焦がすような熱気と、鉄錆と腐肉が煮詰まったゼリー状の悪臭が、呼吸のたびに喉の奥へべったりと張り付いてきた。
眼前で、キャンバスから這い出した五十年前の輪郭が、ゆっくりと私の方へとにじり寄ってくる。 彼女の濡羽色の黒髪と、胡粉色の肌は、蔵の大気に触れた端から激しく酸化反応を起こす。 ぶくぶくと泡を立てて錆色の泥へと崩れ落ちている。
ドチャリ、ドチャリ。
泥が床へ落ちる音が、鼓膜を重く叩く。
私はなぜ、自らの眼球が破裂しそうな苦痛に耐え、この理不尽な崩壊のプロセスから目を背けずにいるのか。 未知の芸術が誕生し、そして消滅していく様を最後まで見届ける、パトロンとしての高潔な殉教。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
私は泥に沈んだ左手の指先を不規則に痙攣させながら、親指と人差し指で床の冷たい泥を執拗にこね回し始めた。
ヌチャ、ヌチャ。
泥が指の間で潰れ、微小な気泡が弾ける音。 そして、気管を焼く強烈な腐肉の悪臭がゼリー状の不快な塊となって、思考の糸をあっさりと焼き切った。
高潔な殉教など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、この理不尽な怪異に自分が飲み込まれつつあるという決定的な事実から目を背け、自分だけは「観測者」という安全な立場にいるのだと必死に思い込みたいだけなのだ。 師匠がどうなろうと、あの女がどうなろうと知ったことか。 ただ自分がこの泥に塗れて消滅する恐怖から逃避し、東京の無菌室へ這い戻って平穏をむさぼりたいという醜悪で利己的なエゴが、泥の中で暴れているに過ぎない。
「愛しているわ」
崩れゆく唇から、ひどく甘く、体温を帯びた音声波形が零れ落ちる。 しかし、私の鼓膜を打つその音声のタイミングは、彼女の口の動きと完全にズレていた。 甘い言葉が遅れて空間に響く間、彼女の口元からは、キャンバスの繊維を引きちぎるような音が漏れ続けている。
グチャリ、グチャリ。
湿った咀嚼音が絶え間なく漏れ続けている。 五十年の時間が抜け落ちたその輪郭は、空間の網目を不規則に明滅させながら、私の視神経を直接削り取りにきた。
右の眼窩の奥で、無数のガラス片が弾け飛ぶような激痛が爆ぜる。 視界が斜めにひび割れ、極彩色の斑点が火花のように散る。
私は泥をこねる左手の動きを止めず、顎を泥に固定されたまま、右手をスーツのポケットへ向けて這わせようとした。 指先の数センチ先にある布地の奥には、亀裂の入った銀鼠の鑑定用ルーペが重く沈んでいるはずだ。 しかし、鉛のように硬直した腕は持ち上がらない。 血流がせき止められ、指先が白く変色していく。 私は、右の親指の爪で、床の泥とスーツの繊維を交互に引っ掻き始めた。
ズッ、ヌチャ。
泥が爪の間に食い込み、布地を擦る微小な摩擦音。
ズッ、ズッ、ヌチャ。
ズレた音声で愛を囁きながら迫る、濡羽色の髪。
グチャリ。
という咀嚼音が私の鼓膜の表面にべったりと張り付き、脳髄の隙間をドロドロの泥で埋め尽くしていく。 右手の指先がようやくポケットの縁に引っかかり、ルーペの金属に触れた。 だが、その冷たい質量を握り込む力は、すでに私の筋肉のどこにも残っていなかった。
ツルリ。
と指先が金属を滑る。
ポチャリ。
鈍色に光るレンズが、ポケットからこぼれ落ちて黒橡の泥の中へと沈み込み、その表面をドロドロの汚泥に完全に覆い隠された。
「愛しているわ」
声が響く。遅れて、泥の塊が床に落ちる。
ズッ、ズッ、ズッ。
私は、気道を塞ぐ腐肉の匂いをひたすらに飲み込みながら、動かない右手の爪で泥を削る単調な摩擦音だけを、この息苦しい暗熱の底で鳴らし続けていた。 網膜の裏側に焼き付いた極彩色の斑点と、舌の根元に滲み出す鉄の味が交差する中。 私の顔面は黒橡の泥の中へゆっくりと沈み込んでいった。




