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第034幕 ――異常なる誕生と泥臭い逃避――

 晩夏の外界から分厚い漆喰壁によって完全に切り離された蔵の最深部。

 ここには、人間の(はい)が受け入れられる大気は微塵も残されていなかった。 上から見えない鉛の板を何枚も重ねられたような重圧(じゅうあつ)が、私の頸椎(けいつい)と肋骨を不規則な角度にねじ曲げる。 関節の隙間から冷や汗とも脂汗ともつかない不快な水分を滲み出させる。

 まるで、巨大な胃袋の底で消化液に――いや、そんな比喩はどうでもいい。

 黒橡(くろつるばみ)の泥が広がる床に顔の右半分を押し付けられたまま。 気管支(きかんし)を直接灼き焦がすような熱気と、鉄錆と腐肉(ふにく)が煮詰まったゼリー状の悪臭(あくしゅう)が、呼吸(こきゅう)のたびに(のど)の奥へべったりと張り付いてきた。

 師匠は、私の眼球(がんきゅう)が今にも内圧で破裂しそうなこの空間の異常を感知していないかのように、キャンバスへ向かってただ無心に豚毛の筆を打ち付けていた。

 ドチャリ、ドチャリ。

 絵の具が布地に擦り付けられる音が、鼓膜(こまく)を重く叩く。

 その最後の一筆が、真朱(まそほ)の絵の具となってキャンバスの表面に叩きつけられた瞬間。 空間の気圧が急激に跳ね上がり、鼓膜(こまく)が内側へと強く凹んだ。

 絵の表面が、ドクンと波打った。

 五十年前の油彩の枠を越え、「女」が泥の床へとその輪郭を這い出させてきた。 五十年の時間が抜け落ちたその輪郭は、空間の網目を不規則に明滅させながら、私の視神経(ししんけい)を直接削り取りにきた。

 彼女の濡羽色(ぬればいろ)の黒髪と、光を吸い込むような胡粉色(ごふんいろ)の肌。 その肌が蔵の大気に触れた途端、急激な酸化反応を起こし、ぶくぶくと泡を立てて赤黒い錆色(さびいろ)の泥へと崩れ落ちていく。

 床に叩きつけられた泥から、強烈な腐肉(ふにく)臭気(しゅうき)が間欠泉のように噴き出し、私の鼻腔(びくう)粘膜(ねんまく)をチリチリと刺激する。

 私はなぜ、この異常な光景から目を背けず、視神経(ししんけい)に焼き付けようとしているのか。 未知の芸術の誕生を最後まで見極める、プロフェッショナルとしての冷徹な矜持。 この理不尽な現象を正確に記録し、後世に残すという観測者としての高潔な使命。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。

 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。

「愛しているわ」

 女の唇の端から漏れ出した甘く体温を帯びた音声波形。

 数秒遅れて響く、グチャリという湿った咀嚼音(そしゃくおん)が、ゼリー状の不快な塊となって思考の糸をあっさりと焼き切った。

 高潔な使命など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、この理不尽な怪異に自分が飲み込まれつつあるという決定的な事実から目を背け、自分だけは「観測者」という安全な立場にいるのだと必死に思い込みたいだけなのだ。

 師匠がどうなろうと、芸術がどうなろうと知ったことか。 ただ自分がこの泥に塗れて消滅する恐怖(きょうふ)から逃避し、東京の無菌室へ這い戻りたいという醜悪で利己的なエゴが、泥の中で暴れているに過ぎない。

 右の眼窩(がんか)の奥で、無数のガラス片が弾け飛ぶような痛み(いたみ)が爆ぜる。

 視界が斜めにひび割れ、極彩色の斑点が火花のように散る。 私は、顎を泥に固定されたまま、右手をスーツのポケットへ向けて這わせようとした。 指先の数センチ先にある布地の奥には、亀裂の入った銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペが冷たく沈んでいるはずだ。

 それを握り込めば、この暗熱の重力を遮断できる。 だが、鉛のように硬直(こうちょく)した腕は持ち上がらない。 血流(けつりゅう)がせき止められ、指先が白く変色していく。

 私は、右の親指と人差し指の爪で、床の黒橡(くろつるばみ)の泥とスーツのウール繊維を執拗に引っ掻き始めた。

 ズッ、ヌチャ。

 泥が爪の間に食い込み、布地を擦る微小な摩擦音。

 ズッ、ズッ、ヌチャ。

 私はその単調で無意味なリズムに意識の焦点を極限まで絞り込むことで、迫り来る圧倒的な()の気配から逃れようと試みる。

 ズレた音声で愛を囁きながら迫る、濡羽色(ぬればいろ)の髪。

 グチャリ、という咀嚼音(そしゃくおん)が私の鼓膜(こまく)の表面にべったりと張り付き、脳髄(のうずい)の隙間をドロドロの泥で埋め尽くしていく。

「愛しているわ」

 声が響く。遅れて、泥の塊が床に落ちる。

 ズッ、ズッ、ズッ。

 私は、気道(きどう)を塞ぐ腐肉(ふにく)匂い(におい)をひたすらに飲み込みながら、動かない右手の爪で泥を削る単調な摩擦音だけを、この息苦しい(いきぐるしい)暗熱の底で鳴らし続けていた。

 網膜の裏側に焼き付いた極彩色のノイズと、舌の根元に滲み出す鉄の味が交差する中。 私の卑小な自我と肉体の輪郭は、一切の抵抗を許されないまま黒橡(くろつるばみ)の泥の中へゆっくりと溶け落ちていった。


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