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第033幕 ――暗熱の重圧と泥臭い逃避――

 炎天の太陽が、足利の乾いたアスファルトを白く焼き焦がしている。 私は、分厚い漆喰に覆われた蔵の重い木扉に両手をかけ、全身の体重を乗せて引き開けた。 蝶番が鈍く軋む音が響いた直後、外界の乾いた空気の層は、内側から溢れ出したドロドロに煮詰まった暗紅色の熱波によって一瞬で掻き消された。 まるで、巨大な溶鉱炉の底へ――いや、そんな比喩はどうでもいい。

 鼓膜(こまく)の奥で、見えない内圧が激しく膨張(ぼうちょう)し、頭蓋骨(ずがいこつ)の継ぎ目がギリリと鈍い悲鳴を上げる。 気管支(きかんし)に流れ込んできたのは、もはや気体ではなかった。 酸化しきった鉄錆の鋭い微粒子と、腐りかけた肉の甘ったるい死臭(ししゅう)がドロドロに混ざり合い、ゼリー状に澱んだ重い粘液(ねんえき)の塊だった。 それが肺胞(はいほう)の内壁にべったりと張り付き、酸素の供給経路を物理的に塞いでいく。

「ガ、あ……ッ」

 気道(きどう)収縮(しゅうしゅく)し、(のど)の奥で粘液(ねんえき)が空回りする湿った音が鳴る。

 見えない巨大な泥の塊が、頭頂部から背骨にかけて直接のしかかってくるような異常な圧迫感(あっぱくかん)。 全身の骨格がミシミシと軋み、膝の関節が自重に耐えきれずに不自然な角度で折れ曲がった。 私は、足元の黒橡(くろつるばみ)の泥の中へと、(あご)から無様に倒れ込んだ。

 ドチャッ。

 鈍い音と共に、泥の粘り気が頬と唇にへばりつく。

 私はなぜ、自らこの狂気の坩堝へと足を踏み入れ、息を詰まらせているのか。 天才の最期を見届け、彼が命を削って生み出した芸術を保護するという、パトロンとしての高潔な使命。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。

 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。

 私は、泥に沈んだ右手の指先を不規則に痙攣(けいれん)させながら、親指と人差し指で床の冷たい泥を執拗にこね回し始めた。

 ヌチャ、ヌチャ。

 泥が指の間で潰れ微小な気泡が弾ける音と、気管を焼く鉄錆の悪臭(あくしゅう)がゼリー状の不快な塊となって鼻腔(びくう)を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。

 高潔な使命など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、この理不尽な暗紅色の熱量から今すぐ逃避し、自分だけが安全な東京の無菌室へ帰り、この蔵の中で起きているすべてを見なかったことにして己の平穏を守りたいだけなのだ。 圧倒的な異常を前にして、他者の命や芸術の完成などどうでもよく、ただ自分が泥に塗れる恐怖(きょうふ)から這い出したいという醜悪なエゴ。

 私の(はい)は空気を求めて痙攣(けいれん)しているが、息を吸い込もうとするたびに鉄錆の粘液(ねんえき)が気管を灼き焦がし、顔の筋肉が重力に引かれて歪な角度に垂れ下がっていく(たれさがっていく)。 東京の高層ビルで管理されていた二十四度の空調風。 白群(びゃくぐん)の紙束の鋭い断面。 インクの微かな酸の匂い(におい)。 それらの記憶が網膜(もうまく)の裏側に貼り付いたまま、この暗紅色の熱と悪臭(あくしゅう)の底でシュウシュウと音を立てて揮発していく。

 私は、(あご)を泥に押し付けたまま、這いつくばるようにして右手をスーツのポケットへ向けて這わせた。 重力に押し潰された腕は鉛のように重い。 指先が、ポケットの入り口の布地を捉え、その表面を執拗に引っ掻き始める。

 ズッ、ズッ。

 泥に汚れた爪が、上質なウールの繊維を削る音。

 ズッ、ズッ、ズッ。

 ポケットの奥深くには、亀裂の入った銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペが冷たく沈んでいるはずだ。 その冷たい金属の縁を指先に引っ掛け、(てのひら)に握り込めば、鼓膜(こまく)を圧迫するこの熱波の濁流を遮断できるはずだ。 しかし、私の指先は布地を浅く削るだけで、ポケットの中へと潜り込むための僅かな推力すら生み出さない。

 ズッ、ヌチャ。

 布を擦る乾いた音と、泥をこねる湿った音が、不規則に脈打つ心拍(しんぱく)と混ざり合う。

 薄暗い視界の奥。 熱気でグニャリと歪む空間の向こう側で、柄が炭化した豚毛の絵筆がキャンバスを打つ音が響いている。

 ドチャリ、ドチャリ。

 粘り気のある重い絵の具の飛沫が跳ねる音。 その規則的なリズムは、私が泥の中で引き攣らせる(ひきつらせる)

 ヒュッ、ヒュッ。

 という浅い呼吸音(こきゅうおん)とは完全に遊離し、絶対的な距離を持って蔵の奥で反復を続けている。 私は、口の周りにまとわりつく腐肉の匂い(におい)をただひたすらに飲み込みながら、動かない指先でウールの布地を引っ掻く微小な摩擦音だけを、この息苦しい(いきぐるしい)暗紅色の底で、永遠に等しい周期で鳴らし続けていた。


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