第032幕 ――自己喪失と泥臭い逃避――
油照の重く湿った熱気が、分厚いガラス窓の向こうで東京のコンクリートの輪郭を音もなく融解させている。 まるで、見えない巨大な胃袋に都市ごと飲み込まれ――いや、そんな比喩はどうでもいい。
私は逃げるように高層マンションの自室へと転がり込み、革張りのソファの前に倒れ込んだ。 天井の吹き出し口からは、二十四度に設定された人工的な冷風が絶え間なく降り注いでいるはずだった。
しかし、私の皮膚の表面には、三十七度前後のねっとりとした生温かい微熱がべったりと張り付いて離れない。
窓外の都市の光は、もはや意味を持たない鈍色の明滅となって、網膜の裏側を不規則に滑り落ちていく。 鼻腔の奥深くに、足利の蔵の底で吸い込んだ鉄錆の鋭い粒子と、腐肉の甘ったるい微粒子が、重い粘液となって絡みついてきた。
空気を吸い込もうとするたび、喉の奥の粘膜が互いに張り付き、
ヒュッ、
という乾いた摩擦音が鳴る。
マホガニーのローテーブルの上。 無機質なデジタル時計の数字がチカチカと明滅する中、私は震える左手でクリスタルボトルを掴み、手元のグラスへ琥珀色の液体を流し込んだ。
私はなぜ、この極限の息苦しさの中で、アルコールを喉に流し込もうとしているのか。 高ぶった神経を鎮め、次なるビジネスの反撃の一手を構築するための、冷徹なプロフェッショナルとしての儀式。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
グラスの表面に瞬時に浮かび上がった微細な結露を親指の腹で擦る、
キュッ、
という摩擦音と、胃壁の裏側からせり上がるどす黒い泥のような鉄錆の匂いがゼリー状の不快な塊となって、思考の糸をあっさりと焼き切った。
プロフェッショナルとしての儀式など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、新島が叩きつけた古い手帳の質量によって、自らの「絶対的な勝者」という前提が根底から崩れ去った事実から、ただ目を背けたいだけなのだ。 自分がひどく凡庸で卑怯な敗北者へと成り下がったという底知れぬ恐怖。
それを直視するくらいなら、アルコールの酩酊やこのみじめな幻覚の痛覚に意識を逃避させたい。 自分を「理不尽な怪異に襲われた悲劇の被害者」に仕立て上げることで、己の卑小なプライドを泥の中で無理やり守り抜こうとする、醜悪な防衛本能に過ぎない。
力が抜け、グラスが手から床の絨毯へと滑り落ちた。
ドスッ。
くぐもった音と共に、琥珀色の液体が繊維の奥深くへと黒々と染み込んでいく。 私は絨毯の上に四つん這いになり、左手の親指の爪で、濡れた短い繊維を一本一本、執拗に引き抜き始めた。
ブチッ、ブチッ。
繊維が千切れる微細な音。
ブチッ、ブチッ。
同時に、四つん這いの姿勢のまま、空いた右手をスーツのポケットの底深くへと沈め込む。 布地の摩擦音。 指先が、冷たく滑らかな金属の縁を捉える。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に引っ掛ける。
チッ、チッ。
ポケットの奥で、爪とガラスが擦れる乾いた音が鳴る。
チッ、チッ、チッ。
爪先が亀裂の溝をなぞった瞬間、ガラスの亀裂の奥から、黒橡の泥がドクドクと脈を打ちながら私の右の掌へと直接溢れ出してきた。
ヌチャリ。
というひどく湿った音が鳴る。 ゼリー状の泥の粘液が指の股を埋め尽くし、掌の皮膚をじりじりと灼き焦がしていく。 かつて右手に負った火傷の痕の記憶が、泥の熱量と交差して、
ズキリ、ズキリ。
と大きく脈打つ。
チッ、チッ、チッ。
私は泥に塗れた右手で、なおもルーペの亀裂を引っ掻き続けた。 爪の裏側の肉が微小な摩擦熱で痛み始め、血が滲む。 喉の奥から込み上げる鉄の味と、空調の吹き出し口から降り注ぐ二十四度の無意味な冷風。 絨毯を引き抜く左手と、ガラスを削る右手。
私は、床に顔を押し付けながら、
ヒュッ、ヒュッ。
という浅く不規則な吸気音を繰り返し、ただ自らの醜い逃避の欲求を物理的な痛覚で覆い隠すように、ポケットの中で金属と爪が擦れる微細な振動だけを、この息苦しい暗熱の底で単調に鳴らし続けていた。




