第031幕 ――偽りの全能感の崩壊と泥臭い逃避――
極暑の太陽が、分厚いガラス窓の向こうでアスファルトを白く茹で上げている。 まるで、巨大なプレパラートの間に挟まれた――いや、そんな比喩はどうでもいい。
新島邸の応接室。 胡粉色に塗られた壁紙に囲まれた空間は、二秒おきに微小なモーター音を立てる空調によって、二十四度の無臭の風が絶え間なく循環していた。 しかし、目の前のソファに腰を下ろす新島誠一郎の口から吐き出される低く重い呼気が、その人工的な冷気を完全にせき止めている。 東京の真ん中にいるにもかかわらず、足利の蔵の底で吸い込んだあの鉄錆と腐肉の重い匂い粒子が、喉の奥からじわりと滲み出し、私の気管支の粘膜にへばりついた。
「新島さん。違約金の額、メディアへの発表取り消しに伴う損失。それらの数字をもう一度確認していただきたい」 私は、舌の裏側が不自然にザラつき、上顎にべったりと張り付くのを唾液で無理やり潤しながら、口から無数の数字の羅列を音声波形として放り投げ続けた。 同時に、左手の人差し指と親指で、スーツの太ももの生地を執拗に擦り続ける。
シュッ、シュッ。
上質なウールの繊維が、乾燥した指の腹の水分を奪い、微細な摩擦を生む。
シュッ、シュッ。
私はなぜ、この期に及んでこれほど必死に数字の羅列を口にしているのか。 プロジェクトの損害を最小限に抑え、最も合理的な着地点を見出すための、プロフェッショナルとしての冷徹な責務。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
シュッ、シュッ。
ウールの繊維を擦る微小な摩擦音と、空調のモーターの低周波がゼリー状の不快な塊となって鼻腔の奥を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。 プロの責務など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、あの蔵の底で実咲を見捨てた己の卑怯さと、新島が持つ「絶対的な被害者の正義」から目を背け、ただ莫大な数字の暴力で彼を黙らせることで、自分がまだ安全圏にいる強者だと思い込みたいだけなのだ。 自らの奥底で暴走を続ける劣等感と怯えを、この胡粉色の壁紙の中で無理やり漂白しようとしているに過ぎない。
「……まだ、そんな数字の羅列を口にするか」 新島の声帯の震えが、私の放った音声波形を完全に圧殺した。
彼は、テーブルの中央に、一冊の古い手帳を静かに置いた。
ドサッ。
鈍色に変色した分厚い革表紙が、マホガニーの天板と衝突し、周囲の大気を重く押し潰す。 手帳の隙間から、古い紙とカビの混じった紙魚の匂いが、鉄錆の幻臭と混ざり合って鼻腔を突いた。
「亡き父の日記だ」 新島の視線が、私を真っ直ぐに射抜く。 その瞳孔の奥には、温度というものが一切存在していなかった。 「五十年前。あの男の欲望によって大学を追われた母が、どれほどの理不尽な痛みを味わったか。父は、母のその消えない傷を生涯かけて記録し続けたのだ」 新島は手帳の表紙を静かに撫でた。 「お前が芸術と呼ぶその絵の具の塊は、私の母の尊厳を蹂躙した汚物に他ならない。お前はそれを金に換え、見世物にしようとした。……私の家族を、これ以上汚すな」
シュッ、シュッ、シュッ。
私の左手がスーツの生地を擦る速度が勝手に上がる。 気管支の弁が不自然に硬直し、空調の風が流れているはずの部屋で、酸素が肺胞へと全く届かなくなった。 血流が急速に足元へと下がり、視界の端から胡粉色の壁紙が迫り出してくる。 私が最大の武器としていた数字も紙幣も、この古い手帳から放たれる圧倒的な質量の前では、ただの空気の振動に過ぎなかった。
私は右手をスーツのポケットの底へ深く沈み込ませた。 冷たく滑らかな金属の縁。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 親指の爪を、レンズを走る微細な亀裂の溝に引っ掛けようとする。
チッ、と。
微かな音を立てて、私はこの冷え切った金属越しに眼前の事態を計算式の中へと押し込めようと試みた。 だが、急速に血流を失った私の指先は硬直して曲がらず、爪はガラスの亀裂に引っ掛かることなく、表面を力なく滑るだけだった。
ツルッ。
摩擦音すら鳴らない。 金属の冷気が、感覚を失いつつある皮膚にただへばりついている。 喉の奥にこびりついた鉄錆の幻臭が、カビの匂いと混ざり合って粘り気を増し、気道を完全に塞いでいく。 私は、座椅子に縫い付けられたまま浅く不規則な呼吸を繰り返し、ただ自らの指先から血の気が引いていくその感覚だけを、この果てのない重力の中で受け入れ続けていた。




