第030幕 ――自己喪失の底と泥臭い逃避――
暮夏の重く湿った大気が、分厚いガラス窓の向こうで東京のコンクリートの輪郭を音もなく溶かしている。
まるで、都市全体が熱で腐敗した巨大な――いや、そんな比喩はどうでもいい。
高層マンションの書斎。 天井の吹き出し口から、二秒おきに二十四度に設定された人工風が絶え間なく降り注いでいる。
しかし、私の皮膚の表面には、三十七度前後のねっとりとした微熱がべったりと張り付いて離れない。 窓外の都市の光は、もはや意味を持たない鈍色の明滅となって、網膜の裏側を不規則に滑り落ちていく。 鼻腔の奥深くに、足利の蔵の底で吸い込んだ鉄錆の鋭い粒子と、腐りかけた肉の甘ったるい死臭が、重い粘液となって絡みついていた。
気管支が狭窄し、呼吸のたびに喉の奥で、
ヒュッ、ヒュッ。
という乾いた摩擦音が鳴る。
私はなぜ、この大理石の床に這いつくばり、無様に散らばった書類の山に顔を押し付けているのか。 自らの計算の甘さを認め、敗北を真摯に受け入れるための、プロフェッショナルとしての冷徹な儀式。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
モニターの光がチカチカと点滅を繰り返すノイズと、喉の奥からせり上がる鉄錆の味がゼリー状の不快な塊となって、思考の糸をあっさりと焼き切った。
敗北を真摯に受け入れるなど、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、新島に叩きつけられたあの古い手帳の質量と、自らの「現実社会での勝利」という前提が根底から崩れ去った事実からただ目を背けたいだけなのだ。 このみじめな痛覚と泥の幻触に意識を逃避させることで、現実の自分が完膚なきまでに敗北し、何者でもなくなったという底知れぬ恐怖と劣等感から自らを守ろうとする、醜悪な防衛本能に過ぎない。
私は、左手の人差し指で、床に散らばった白群の契約書類の鋭い断面を反復してなぞり続けた。
スッ、スッ。
乾燥した皮膚が紙の繊維と擦れ合い、微小な摩擦音を立てる。
スッ、スッ、スッ。
同時に、四つん這いの姿勢のまま、右手をスーツのポケットの底深くへと沈め込んだ。 布地の摩擦音。 指先が、冷たく滑らかな金属の縁を捉える。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に引っ掛ける。
チッ、チッ。
ポケットの奥で、爪とガラスが擦れる乾いた音が鳴る。
チッ、チッ、チッ。
だが、爪先が亀裂の溝をなぞった瞬間、ガラスの亀裂の奥から、黒橡の泥がドクドクと脈を打ちながら私の右の掌へと直接溢れ出してきた。
ヌチャリ。
というひどく湿った音が鳴る。 ゼリー状の泥の粘液が指の股を埋め尽くし、掌の皮膚をじりじりと灼き焦がしていく。 かつて右手に負った火傷の痕の記憶が、泥の熱量と交差して、
ズキリ、ズキリ。
と大きく脈打つ。
チッ、チッ、チッ。
私は泥に塗れた右手で、なおもルーペの亀裂を引っ掻き続けた。 爪の裏側の肉が微小な摩擦熱で痛み始め、血が滲む。 喉の奥から込み上げる鉄の味と、空調の吹き出し口から降り注ぐ二十四度の無意味な冷風。 大理石の床に張り付く書類の冷たさと、掌を灼く泥の熱。 私は、床に顔を押し付けながら、
ヒュッ、ヒュッ。
という浅く不規則な吸気音を繰り返し、ただポケットの中で金属と爪が擦れる微細な振動だけを、この息苦しい暗熱の底で単調に鳴らし続けていた。




