第029幕 ――完全なる敗北と泥臭い逃避――
晩夏の油照が、分厚い防音ガラスの向こう側で東京のアスファルトを白く茹で上げている。 まるで、都市全体が熱した鉄板で――いや、そんな比喩はどうでもいい。
東京・久松町。 館長室の空間は、二秒おきに微弱なモーター音を立てる空調によって、二十四度の無臭の風が絶え間なく循環していた。 しかし、向かいの革張りの椅子に腰を下ろす新島誠一郎の口から吐き出される重い呼気が、その人工的な微風を完全にせき止めている。 窓から差し込む鋭い光が、マホガニーのデスクの表面に落ちる。
足利の蔵の底で吸い込んだ、あの鉄錆と腐肉の重い匂い粒子が、喉の奥からじわりと滲み出し、私の気管支の粘膜にへばりついた。
「莫大な違約金を払い、メディアへの発表を撤回すれば、新島アートが被る経済的損失は計り知れません。追加の資金投入と、展示期間の調整によって……」
私は舌の裏側に張り付く不快な乾燥を唾液で無理やり潤しながら、口から無数の数字と条件の羅列を音声波形として放り投げ続けた。 同時に、手元にある漆黒の革表紙に包まれた契約書の端を、左手の親指の腹で執拗になぞり続ける。
スッ、スッ。
私はなぜ、これほどまでに執拗に数字と条件を並べ立てて、彼との交渉を継続しようとしているのか。 美術館の損害を最小限に抑え、最も合理的な着地点を見出すための、プロフェッショナルとしての冷徹な責務。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
スッ、スッ。
上質紙の鋭い断面が指の皮膚を削る微細な摩擦音と、インクの酸の匂いがゼリー状の不快な塊となって鼻腔を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
プロフェッショナルの責務など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、あの地下室で理不尽な怪異に引きずり込まれそうになった娘を見捨てた己の卑怯さと、ただ一人怯えきっていた事実から逃避し、この盤石な無菌室から莫大な違約金という数字の暴力で新島を縛り上げて見下ろしたいだけなのだ。 他者を資本でねじ伏せて優位に立つことでしか、私の奥底で暴走を続ける劣等感と怯えを誤魔化すことができないからだ。
「黙れ」
新島の声帯の震えが、私の放った数字の羅列を空中で完全に圧殺した。 彼の喉仏が低く動き、空調の風を切り裂くような音声波形が私の鼓膜を直接叩き据える。
「金田の蔵へ、私の娘を同行させたな。彼女の髪留めが凍りつき、床でのたうち回る様を、ただガラス越しに眺めていたというのか」
その言葉の波形が空気を伝わった瞬間、私の肺を支えていた酸素が急速に失われた。
スッ、スッ。
契約書の端をなぞる左手の指先から血の気が引き、白く変色していく。 心臓が不規則なリズムで跳ね、血液が足元へと一気に下っていく。
「彼女の肉体を、絵の具の異常を測るための道具として消費し、他者の人生を燃やした炎を安全な場所から見物する。その口で、二度と文化を語るな」
新島はゆっくりと立ち上がった。 彼はデスクの脇に置かれていた白練のシルクの手袋を手に取り、右手の指先から一つ一つ、確かな動作で嵌めていく。
シュッ、シュッ。
絹の繊維が皮膚を擦る音が、静まり返った館長室に反響する。 彼はその純白の手で、マホガニーのデスクの中央にあった契約書を無造作に掴み、私の方へと滑らせた。
ズサッ。
分厚い紙の束が木材の表面を擦り、私の腹部に鈍い風圧を叩きつける。
「二度と、私たちの前に姿を現すな」
私は右手をスーツのポケットの底へ深く沈めようとした。 冷たく滑らかな金属の縁。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 その表面を斜めに走る亀裂の溝に、親指の爪を引っ掛けようとする。
チッ、と。
微かな音を立てて、私はこのガラス越しに彼をねじ伏せようと試みた。 だが、急速に血流を失った私の指先は硬直して曲がらず、爪はガラスの表面を力なく滑るだけだった。
ツルッ。
摩擦音すら鳴らない。 金属の冷気だけが、感覚を失いつつある皮膚にへばりつく。
喉の奥にこびりついた鉄錆の幻臭が、粘り気を増して気道を完全に塞いでいく。 私は、革張りの椅子に縫い付けられたまま、ただ冷たい空調の風が私の体表面から残された熱を均等に奪い去っていくのを、浅い呼吸とともに受け入れ続けていた。




