第028幕 ――数字の防壁と泥臭い逃避――
炎天の熱気がコンクリートを白く焼く久松町。 地下保管室での惨劇から逃れるようにして飛び乗った、無機質なエレベーターの箱の中。 密閉された箱は、一定のモーター音を響かせながら上層階の館長室へと昇っていく。
ウィーン。
という低い周波数の駆動音が、革靴の底から骨伝導で頭蓋骨の裏側を微細に揺らす。 まるで、見えない巨大な鋼鉄の胃袋が――いや、そんな比喩はどうでもいい。 密室の温度は二十四度に設定されているはずだが、私のワイシャツの襟元には、三十七度前後のねっとりとした生温かい汗がべったりと張り付いている。 鼻腔の奥には、地下で新島誠一郎が発した腐肉と鉄錆の匂いがこびりつき、息を吸い込むたびに気管支の粘膜をチリチリと刺激した。
私は、左手の人差し指と親指で、右手の甲に微かに付着した黒橡の泥の染みを執拗に擦り続けていた。
シュッ、シュッ。
乾燥した指の腹が、皮膚の表面を削る微細な摩擦音。
シュッ、シュッ、シュッ。
私はなぜ、逃げるように自らの館長室へと戻り、新島を縛り付けるための分厚い契約書の束を急いで用意しようとしているのか。 予測不能な事態に対する、組織のトップとしての冷徹なリスクヘッジ。 文化の祭典を滞りなく遂行するための、プロフェッショナルとしての理知的な防衛策。 ……そうだ。社会的に成功した人間が下すべき、最も正当で合理的な判断だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
チン。
というエレベーターの無機質な到着音と、鼻腔を突く鉄錆の幻臭がゼリー状の不快な塊となって、思考の糸をあっさりと焼き切った。
プロフェッショナルとしての防衛策など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、あの地下室で理不尽な過去の汚泥に引きずり込まれ、顔面を崩壊させて叫んだ新島の圧倒的な熱量から逃避し、盤石な防音ガラスに囲まれたこの安全圏から、莫大な違約金という数字の暴力で彼を縛り上げて完全に見下ろしたいだけなのだ。 他者の生々しい情念を圧倒的な資本でねじ伏せることでしか、自らの奥底で暴走を続ける得体の知れない劣等感と怯えを塗り潰すことができないからだ。
エレベーターの扉が開き、誰もいない静謐な廊下が目の前に広がる。 私は歩き出しながら、右手をスーツのポケットの底深くへと沈み込ませた。 布地が擦れる微かな音。 指先が、冷たく滑らかな金属の縁を捉える。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に深く引っ掛ける。
チッ、チッ。
ポケットの奥で、爪とガラスが擦れる乾いた音が鳴る。
チッ、チッ、チッ。
冷え切った金属の質量が、火照った掌の肉に深く食い込み、血流をせき止める鈍い圧迫感を生む。 地下室でルーペを取り落としたあの一瞬の無力感を上書きするように、私はその金属の縁を指関節が白くなるまで強く握り込んだ。
「違約金、損害賠償、メディアへの影響……」
私は渇いた喉から、空気の漏れるような掠れた音声波形を無意識に呟いていた。 それらの単語は、網膜の裏側で白黒の数字の羅列へと変換され、不規則に明滅を繰り返す。
チッ、チッ、チッ。
右手の爪がガラスの亀裂を削る速度が勝手に上がる。 廊下の分厚い絨毯が革靴の足音を完全に吸収し、空間は耳鳴りがするほどの不気味な静寂に包まれている。 空調の吹き出し口から降り注ぐ二十四度の冷風が、私の体表面の熱を均等に奪い去っていく中、私はただ口内に滲む微かなインクの酸の匂いと鉄の味を飲み込みながら、逃げ込むべき館長室の重厚なマホガニーの扉へ向かって、ひたすらに無意味な摩擦音を鳴らし続けていた。




