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鳥籠に咲いた愛の花  作者: 朝凪
4章

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44/45

悪夢の夜

家族で本音を打ち明け合った夜から、数日は穏やかに過ぎていった

あの晩、3人は不安をすべて解決できたわけではない

父になることへの恐れも、母になることへの戸惑いも、浅葱の胸に残る“捨てられるかもしれない”という影も、綺麗さっぱり消えたわけではなかった

けれど、ひとつだけ確かに変わったことがある

誰かが黙って我慢していそうな時、前よりも少しだけ、互いの顔をよく見るようになった

「大丈夫?」と聞く声が増えた

「少し怖い」とか「今日は変な感じがする」とか、そういう小さな本音を口にしやすくなった

それはきっと、とても大事な変化だった


朝、紫苑が仕事へ出る前

玄関で靴を履きながら、振り返る


「エレオノール、買い物に行くなら浅葱が帰ってからにしてね」

「ええ、わかっておりますわ」

「“ええ”って返事、ちょっと雑じゃない?」

「気のせいです」

「ほんと?」

「ほんとうですわ。わたくし、無理はしておりません」

「ならいいけど」

「それに、今日はお部屋で大人しく本を読んでいる予定ですもの」

「……本当に?」

「疑い深いですわね」

「前科があるからね」

「まあ」

「エレオノールさん、ぼくが帰ってくるまで、重いもの持っちゃだめだよ」

「浅葱まで」

「だって家族会議で決まったもん。“こまったら言う”“むりしない”って」

「……ええ、そうでしたわね」

「ちゃんと守ってよ?」

「はい、守ります」


浅葱は満足そうに頷いた

そんな二人を見て、紫苑も少し笑う


「行ってくるね」

「いってらっしゃいませ」

「いってらっしゃい!」


扉が閉まり、朝の静けさが戻る

エレオノールはしばらくその扉を見つめていたが、やがて静かに自分のお腹へ手を当てた


「……今日は静かな日になりそうですわ」


そう、小さく呟く

だが、その穏やかさが崩れるのは、その夜からだった


ーーーーーーー


その夜、エレオノールは夢を見た

最初は、ただ暗い夜の夢だった

冷えた石畳。どこか遠くから聞こえる怒号。赤い月。風に揺れる木々の音

何かを必死に探しているような、自分の小さな足音

夢の中のエレオノールは、今の大人の姿ではなく、幼い少女だった

白いドレスの裾が夜露に濡れ、細い指が震えている


「お母様……?」


小さな声で呼ぶ


「お父様……?」


返事はない

ただ、妙に生々しい鉄の匂いだけが鼻を刺した

闇の向こうに、人影が見える

その影へ駆け寄ろうとした瞬間、少女の視界に“赤”が広がった

ーー血だ

地面を濡らし、衣を汚し、指先にまとわりつくほどの濃い血

その真ん中に、大人が二人、倒れている


「ーーっ!」


夢の中の少女は声が出ない

叫んでいるはずなのに、喉が凍りついたように音にならない

倒れているのは、父と母だ

そうわかる。わかるのに、顔がよく見えない

輪郭だけが滲んで、今にも霧の中へ消えてしまいそうだ

その時、誰かの笑い声がした

低く、いやらしく、遠くて近い笑い声

“人間”だ

幼いエレオノールは本能的に理解する

彼らが奪ったのだ

自分の父と母を、この世から

少女は血の中へ膝をつく

冷たい

手のひらも、膝も、裾も、全部が赤に染まる


「いや……」


ようやく絞り出した声は、あまりにも小さかった


「いや……お母様!お父様!いや……いや……!」


そこで、母の手がかすかに動いた気がした

血に濡れた指先が、幼い娘の頬に触れようとする

けれど、その手が届く前に、がくりと落ちる


「ーーいやああああっ!!」


絶叫とともに、エレオノールは飛び起きた


「エレオノール!」


すぐ横から紫苑の声がした

暗い寝室の中、息を切らしたエレオノールは、自分がどこにいるのか一瞬わからなかった

胸が苦しい

喉が痛い

全身に嫌な汗をかいている


「……っ、は、……」

「エレオノール」

「紫苑……?」

「そうだよ」

「……あ……」


紫苑の腕が肩を支える

ぬくもりがある

ここは家だ。寝室だ

血の匂いはしない

笑い声も聞こえない

そう頭ではわかるのに、身体がまだ夢の中から抜け出せない


「水、飲める?」

「……っ」

「ゆっくりでいいから」

「……は、い……」


震える手でコップを受け取るが、上手く持てない

紫苑がそっと手を添えてくれる

少しだけ水を飲んで、ようやく呼吸が整い始めた


「悪い夢?」


紫苑が静かに聞く

エレオノールは答えようとして、唇を噛んだ


「……見えて、しまったの」

「何を?」

「お父様と、お母様が……殺された時のことを」


紫苑の目がわずかに見開かれた

エレオノールは、自分でも驚くほど鮮明に夢の内容を覚えていた

いつもは違う

両親の最期を思い出そうとしても、輪郭は曖昧で、痛みだけが残るような記憶だった

なのに今夜は違った


「普段は、こんなにはっきりしないのに……血の色も、匂いも、声も……全部、見えたの」

「……」

「お母様が手を伸ばしてくださったの。でも、届かなくて……」


そこでエレオノールの声が震えた


「わたくし、何もできなかった。小さくて、怖くて……何も……」


紫苑は何も言わず、ただ彼女を抱き寄せた

簡単な慰めを口にするのは違う気がしたからだ

「もう終わったことだ」と言うのは簡単だ

「夢だ」と言うのも簡単だ

けれど今のエレオノールにとっては、終わった過去でも、ただの夢でもない

身体が覚えている痛みだった

しばらくして、エレオノールは小さく呟いた


「どうして今、こんな夢を見たのかしら」

「……」

「普段は曖昧なのに、今だけ、どうして……」


紫苑は答えられなかった

ただひとつ思ったのは、たぶん“母になる”からだ、ということだった

母になるから、母を失った夜が疼く

母になるから、自分が受け取れなかったもの、失ったもの、消えてしまったものが、急に輪郭を持ち始める

でも、それを今言葉にするのは違う気がした


「とりあえず、今日はもう寝なくて大丈夫」

「え?」

「無理に寝ようとしなくていいって意味」

「でも……」

「起きていよう?俺も付き合う」


エレオノールは少しだけ目を見開き、それから、ほっとしたように肩の力を抜いた


「……ありがとう」

「うん」

「紫苑」

「??」

「手を、握っていてくださる?」

「もちろん」


その夜、二人は灯りを小さくつけたまま、朝方まで眠らずにいた


ーーーーーーー


翌朝。浅葱は食卓の空気がいつもと違うことに、すぐ気づいた

気づくには十分すぎるほど、紫苑の目の下にうっすら隈ができていて、エレオノールもどこか疲れて見えた


「……どうしたの?」


トーストを前にして、浅葱が小さく聞く


「なんでもないよ」


と紫苑が返すが、誤魔化し方がいつもより下手だ


「なんでもなくない顔だよ」

「……」

「エレオノールさんも、ねむそう」

「……少し、そうかもしれませんわね」

「夜、ねむれなかったの?」


エレオノールは答えに詰まる

浅葱に心配をかけたくない

だが、ここで曖昧に流せば、また“言わないこと”が増える気がした

その時、紫苑が先に口を開いた


「エレオノール、悪い夢見たんだ」

「わるいゆめ?」

「うん」

「こわいやつ?」

「……こわいやつ」


浅葱はすぐにエレオノールの方を見た

彼の浅葱色の瞳に、あからさまな心配が浮かぶ


「だいじょうぶ?」

「ええ……大丈夫、とは言い切れませんけれど」

「どんな夢?」

「浅葱」


と紫苑が少し制するように言う

だがエレオノールは首を振った


「構いませんわ」

「……」

「家族には、話すと決めたでしょう?」


浅葱は、少しだけ背筋を伸ばした

その様子がいじらしくて、紫苑は何も言えなくなる


「昔の夢を見ましたの」


とエレオノールは静かに話し始める


「わたくしの父と母が殺された時の夢」


浅葱が息を呑む


「お顔は普段、あまり思い出せないのに……昨日は、いつもよりずっと鮮明で」

「……」

「起きても、少し怖かったのですわ」


浅葱はしばらく黙っていた。そして、おずおずと聞く


「……もう、こわくない?」


エレオノールは少し考えてから、正直に答えた


「少し、まだ怖いです」

「そっか……」

「でも、紫苑がそばにいてくださいましたから」

「……うん」

「今は、話せていますわ」


浅葱はそれを聞いても、すぐには安心した顔をしなかった

むしろ、困ったような、考え込むような顔になる


「浅葱?」

「ぼく……」

「うん」

「ぼくも、なにかしたい」

「え」

「エレオノールさんが、こわいの、なくしたい」

「……浅葱」


その言葉は、子どもらしくて、でも真剣だった

紫苑は苦笑しながら言う


「気持ちはありがたいけど、浅葱に無理はさせられないよ」

「でも、なんかあるかもしれない」

「なんかって」

「なんか!」


語彙は足りない

でも、想いだけはまっすぐだった

エレオノールはそんな浅葱を見つめて、やわらかく微笑んだ

その笑みは昨夜より少しだけ生気が戻っている


「ありがとう、浅葱」

「うん……」

「そのお気持ちだけで、わたくしはとても嬉しいですわ」

「でも、きえないのはいや」

「……そうですわね」


それ以上、何か答えを出せるわけではなかった

その朝は結局、3人とも少し考え込んだまま、それぞれの1日を始めることになった


ーーーーーーー


だが、悪夢はその夜も来た

昨夜ほど鮮明ではない

それでも、エレオノールはまた夜中にうなされ、紫苑が飛び起きることになった


「エレオノール!」

「……っ、お母様……いや……!」

「大丈夫、俺はここにいるよ」

「……っ、は……ぁ……」


今度は起きるのが少し早かった分、彼女の混乱も昨夜ほど深くはなかった

けれど、2夜続いたことで、紫苑の胸に焦りが生まれる

これは一時的なものなのか

それとも、しばらく続くのか

何もしなければ、このままエレオノールは夜を怖がるようになるのではないか

翌日、浅葱にもすぐにばれた


「また?」

「…ええ」


とエレオノールは苦笑する

浅葱は眉を下げた


「やだな」

「何とかしたい」


と紫苑が言う


「でも、何したらいいかわかんない」

「俺もだよ」


珍しく、紫苑はあっさりそう認めた

浅葱は少し意外そうに目を丸くする


「紫苑さんでも?」

「大人も、万能じゃないんだよ」

「ちょっと思ってた」

「なんで?」

「なんか、何でもできそうだから」

「買いかぶりだよ。俺は今かなり困ってる」

「……そっか」

「そっかじゃない。浅葱も考えて」

「ええっ」

「家族会議だろ」


そこでエレオノールが、少しだけ吹き出した

久しぶりに自然な笑いが漏れた気がして、紫苑も浅葱も一瞬きょとんとする


「ごめんなさい。でも、少しおかしくて」

「おかしいか?」

「だって、2人とも真剣なお顔で“どうしよう”と相談してくださるから」

「……笑えるならいいけど………」

「ええ。少し元気が出ましたわ」


その言葉は本心だった

悪夢は怖い。過去の傷は痛い

でも、自分ひとりがその闇に落ちているわけではないとわかるだけで、ほんの少し息がしやすくなる

ただ、それでも夜は来る

そして夜が来れば、また眠るのが怖くなる

その日の夕方、紫苑はついにオーギュストへ連絡を入れた


「義兄さん、相談があります」

『珍しいな。お前から私に助けを求めるとは』

「茶化さないでください」

『で、何だ』

「エレオノールが、両親が殺された夢を何日も見ていて……」


電話の向こうで、オーギュストが一瞬黙ったのがわかった


『……そうか』

「しかも今だけ、妙に鮮明らしいんです」

『……なるほどな』

「何か心当たりでも?」

『あるとも』

「何ですか」

『“母になる時期”だからだろう』

「……」

『子を宿せば、己が親を思い出す。受け取れなかったもの、失ったもの、守られなかった記憶が疼くのは、そう不思議ではない』

「……やっぱ」

『で、お前達は何をした』

「手握ったり、起こしたり、話聞いたり」

『悪くない』

「でも足りない」

『当然だ』

「はい」

『傷は理屈で消えん』


オーギュストの声は、いつもより少し低く、静かだった


『だが、悪夢を見ない方法は簡単だ』

「……ほんとうですか?」

『ああ』

「どうすれば良いんですか」

『幸せな時間を過ごせばいい』

「……え?」

『過去は消えない。夢を完全に追い払うこともできん。でも、人の心は“今”に引かれる』

『安心した記憶、笑った時間、愛された実感ーーそういうものを、起きている間にたくさん重ねろ。そうすれば、眠りに落ちる前の心の温度が変わる』

「……」

『エレオノールに必要なのは、忘却ではなく、今ここに幸福があるという確信だ』

「幸福な時間……」

『そうだ。お前と浅葱で作れ』

「随分雑な指示ですね」

『本質だ。お前達は家族だろう』

「……」

『なら、家族らしく笑わせてやれ』


電話が切れたあと、紫苑はしばらくスマホを見つめていた

幸せな時間を過ごせばいい

あまりにも単純で、拍子抜けするような助言だった

けれど、妙に腑に落ちる

悪夢を消すことはできない

過去そのものを塗り替えることもできない

でも、今を重ねることはできる

そこへ、浅葱がひょこっと顔を出した


「紫苑さん?」

「どうしたの?」

「オーギュストさん?」

「そう」

「なんて?」


紫苑は少しだけ口元を緩めた


「悪夢を見ない方法は簡単だ、だって」

「えっ、ほんと?」

「ほんと」

「何すればいいの?」

「幸せな時間を過ごせばいいって」


浅葱は数秒、真顔で固まった


「……それだけ?」

「それだけ」

「ほんとに?」

「ほんとらしい」

「なんか、すごいこと言いそうなのに」

「俺もそう思ったなぁ」

「じゃあ、しあわせな時間って、どうやってつくるの?」

「……」

「……」


2人は顔を見合わせる

そして、ほぼ同時に口を開いた


「出かけようか」

「おでかけしよう!」


声が重なって、思わず2人とも吹き出した


「浅葱」

「なに?」

「明日、休みだったよね」

「うん!」

「じゃあ、エレオノール連れて、遊びに行こう」

「やった!」

「ただし、無理はさせないようにね」

「わかった!いっぱいたのしいやつ!」

「そう。いっぱい楽しいやつにしよう」


そう言いながら、紫苑は久しぶりに少しだけ前向きな気持ちになっていた

過去を消せなくてもいい

悪夢を1晩で追い出せなくてもいい

ただ、エレオノールが目を覚ました時に、「昨日は幸せだった」と思える一日を作れたら

それはきっと、小さくても確かな光になる

その夜、紫苑と浅葱は、こっそり2人で明日の相談をした。

どこへ行こうか?何を食べようか?

エレオノールは何なら1番笑うだろうか?


寝室では、エレオノールが静かに目を閉じている

まだ、少し怖い

でも今夜は、不思議と昨日までほど暗くない気がした

居間の方から、紫苑と浅葱のひそひそ声がかすかに聞こえてくる

何を話しているのかはわからない

けれど、その気配だけで、胸の奥にほんの少しだけあたたかいものが灯った

悪夢はまだ終わっていない。過去も消えない

それでも、手を伸ばしてくれる家族がいる

そのことだけは、はっきりと確かだった

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