家族で話すということ
浅葱が泣きながら本音を吐き出したあの日から、家の空気は静かに揺れていた
重苦しいわけではない。けれど、誰もがそれぞれに「もっと早く気づくべきだった」と思っていた
浅葱はようやく恐れを口にできた安心からか、前より少しだけ甘えるようになった
エレオノールはその変化を嬉しく思う一方で、浅葱がひとりで不安を抱え込んでいた時間を思うと胸が痛んだ
紫苑もまた、あの小さな身体に「捨てられたくない」と言わせてしまったことを、何度も反芻していた
ーーーーーーー
ある日。浅葱が学校へ行っている間、エレオノールはオーギュストの屋敷を訪れていた
応接室へ通された彼女を見た瞬間、兄はいつものように立ち上がる
「エレオノール、顔を見ればわかる。何かあったな」
「お兄様……」
「誰だ。お前を悩ませる不届き者は」
「そういう物騒な言い方は、やめてくださいませ」
「なら早く教えろ」
「……家族のことですわ」
その一言で、オーギュストの顔つきが少し変わった
怒るための顔ではなく、聞くための顔になる
「座れ」
「ええ」
「紅茶は?」
「いただきます」
香り高い紅茶が注がれるまでのわずかな間に、エレオノールは自分の指先を見つめていた
話したい
でも、どこから話せばいいのかわからない
そんな妹の迷いを察したのか、オーギュストが先に口を開く
「浅葱か?」
「……どうして」
「お前が自分のことだけでここまで沈む時は、だいたい大事な者のことだ」
「お兄様は時々、嫌になるくらい勘が鋭いですわ」
「褒め言葉として受け取っておこう」
エレオノールは小さく息を吐いた
そして、静かに話し始める
「浅葱が、不安を打ち明けたのです」
「ほう」
「赤ちゃんが生まれたら、自分は要らなくなるのではないかと」
「……」
「自分は捨てられるのではないかと、泣いて……」
オーギュストは表情を消した
怒っているのではない
あまりにも重い言葉を、そのまま受け止めた時の顔だった
「そうか」
「ええ……」
「辛かっただろうな、あの子も」
「はい」
「お前も」
「……はい」
エレオノールはカップを持つ手にそっと力を込める
「わたくし、あの子がそんなふうに思っていたことに気づけなかったのです。浅葱はいつも笑って、赤ちゃんのことも楽しみにしていたから……。その裏で、あんなに怖がっていたのに」
エレオノールは一呼吸置いた
「わたくしは母になる不安ばかり見ていて、あの子の心細さを取りこぼしていた」
「エレオノール」
「不安だったのに、ちゃんと話せていなかったのですわ」
オーギュストは静かに頷いた
「家族とは、案外そういうものだ」
「え?」
「近すぎるからこそ、言わずとも伝わる気がしてしまう。……だが実際には、言葉にしなければ届かん」
「……」
「ましてお前達は、皆どこかで“我慢すること”を覚えすぎている」
その言葉は、エレオノールの胸にまっすぐ刺さった
確かにそうだった
自分も紫苑も浅葱も、誰かを困らせたくなくて、本音を呑み込む癖がある
言わなくてもわかってほしいのではない
むしろ逆で、言ってしまったら相手の負担になる気がして、抱え込んでしまうのだ
「では、どうすれば良いのかしら」
「簡単だ」
「簡単……ですか?」
「家族で話し合え」
「……」
「それが一番の解決法だ」
あまりにも簡潔な答えだった
けれどオーギュストは真剣だった
「浅葱が恐れたのは、“自分だけが知らないうちに置いていかれること”だろう?……なら、置いていかないと、何度でも言葉にして伝えろ。義弟も、お前も、自分の不安を隠すな」
「……………」
「子どもだからといって、何もわからぬと思うな。あの子は敏い」
「……ええ」
「ならばこそ、誤魔化すな。ちゃんと話せ」
「浅葱も含めて?」
「当然だ」
「でも、あの子はまだ8歳ですわ」
「8歳でも家族の一員だ。大事なことを“子どもだから”と外で決められる方が、よほど不安になる」
エレオノールは息を呑んだ
その通りだった
家族になるとは、一緒に守られることだけではない
一緒に決めていくことでもあるのだ
「……わかりました」
「よし」
「今夜、ちゃんと話しますわ」
「そうしろ」
「お兄様」
「何だ」
「ありがとうございます」
「礼は要らん」
「でも」
「私は兄だ。妹が迷った時に、背中を押すくらいはする」
「……ええ」
その返事をしながら、エレオノールは少しだけ肩の力を抜いた
兄の言葉はいつだって単純で、だからこそ心に残る
ーーーーーーー
その頃。紫苑は櫻井の店で、珍しくため息の多い仕込みをしていた。
「おい」
「……はい」
「さっきからため息ばっかりだな」
「出ちゃうんです」
「幸せが逃げるぞ」
「今それ言いますか?」
「言う」
「容赦ないなあ」
櫻井はカウンター越しに紫苑を見やる
煙草を咥える仕草すら、どこか昔気質で絵になる男だ
「で、今度は何だ」
「今度はって……」
「前も似た顔してたろうが」
「……」
「言えよ」
「……浅葱に泣かれました」
「ほう」
「赤ちゃんが生まれたら、自分はいらなくなるんじゃないかって」
「……」
「捨てないで、って」
「……そうか」
櫻井は、やはり必要以上に驚かない
だが目の奥はきちんと重くなっていた
「きつかったろ」
「……きつかったです」
「だろうな」
「それに、俺たちは気づけなかった。俺もエレオノールも、自分のことでいっぱいいっぱいだったのかもしれない。それが、情けなくて……」
櫻井は少しだけ首を傾けた
「情けない、で終わらせるな」
「え?」
「気づけなかったのは事実だろうよ。でも大事なのはそのあとだ」
「……」
「気づいたなら、どうする」
「……ちゃんと伝える」
「そうだな」
「何回でも」
「うん」
「でも、それで足りるのかな……」
紫苑の声が少しだけ低くなる
「俺、浅葱に“絶対大丈夫”って言ったんです。でも、家族って変わるじゃないですか」
「そうだな」
「赤ちゃんが生まれたら生活も変わるし、浅葱に我慢させることもゼロじゃない。それを“何も変わらない”みたいには、言えない」
櫻井はそこで、珍しく「お」と感心したような声を漏らした
「そこまで考えたか」
「まあ……」
「なら答えは簡単だ」
「何ですか?」
「嘘をつくな」
「……」
「“何も変わらない”じゃない。変わるところはある。でも、お前の居場所は変わらないって言え」
「……あ」
「家族が増えりゃ、暮らしは変わる。手間も増える。不器用な時期もある。でも“お前が大事だ”って部分は変わらねぇ。……伝えるならそこだ」
紫苑は、はっとした顔をした
確かにそうだった
自分は浅葱を安心させたくて、思わず“何も変わらない”という方向で言いそうになっていた
でもそれは違う
赤ちゃんが生まれれば、日々は変わる
慌ただしくもなる
浅葱が“お兄ちゃん”として求められる場面も出てくるだろう
けれど、その変化と“浅葱の大切さ”は別の話だ
「……そう、ですよね」
「わかったか」
「はい」
「じゃあ、もう1個教えといてやる」
「何ですか?」
「家族で話せ」
「……やっぱりそこですか」
「やっぱりそこだ」
「なるほど」
櫻井は鼻で笑った
「お前、何でも1人で“ちゃんとしなきゃ”って抱え込む癖あるだろ」
「………あります」
「エレオノールちゃんも似たようなもんだ」
「否定できません」
「浅葱だってそうだ。だから3人揃って同じ穴の狢なんだよ」
「ひどい言い方ですね」
「本質だ」
「……」
「だから話せ。話して、困って、笑って、また考えろ。それが家族だ」
紫苑はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った
「……今夜、ちゃんと話します」
「おう」
「逃げずに」
「それでいい」
ーーーーーーー
夜。家へ戻ると、浅葱はもう風呂を済ませていて、居間で絵本を読んでいた
エレオノールはソファで静かに刺繍をしている
その穏やかな光景を見て、紫苑は少しだけ胸があたたかくなった
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
「おかえり、紫苑さん」
「ただいま。浅葱、今日は何を読んでるの?」
「これ。くまのこが、はちみつ探すやつ」
「可愛い話だね」
「好きだよ」
「そうだね」
夕食はいつもより少し静かだった
気まずいわけではない
ただ3人とも、今夜きちんと話すのだとわかっているから、どこか心の準備をしているような静けさだった
寝る前。エレオノールが、いつもより少しだけ丁寧な声で言った
「浅葱、紫苑。少し、お話しませんか?」
「……うん」
「ああ」
寝室へ移り、3人は同じベッドの上へ腰かけた
浅葱は真ん中
紫苑とエレオノールが、その両側にいた
浅葱は小さく膝を抱えていた
また何か悪いことを言ってしまうのではないかと、不安そうな顔をしている
その顔を見て、エレオノールはまず、やわらかく微笑んだ
「そんなに身構えなくて構いませんわ」
「……でも」
「叱るためではありませんもの」
「じゃあ、なに?」
「ちゃんと本音を話すためです」
「本音……」
最初に口を開いたのは、紫苑だった
「浅葱、この前話してくれたよね」
「……うん」
「ありがとう」
「え」
「浅葱が何も言わないままだったら、俺たち、気づけなかった」
「でも、ぼく、へんなこと」
「へんじゃない」
紫苑は首を振る
「捨てられるのが怖いって、当たり前だよ。浅葱は1回、そういう思いしてるんだから」
「……」
「だから怖くなって当然だよ」
浅葱の目が、少しだけ揺れた
否定されると思っていたのかもしれない
でも紫苑の声は、ただまっすぐだった
今度はエレオノールが続ける
「わたくし達も、あなたに話しておきたいことがあるの」
「ぼくに?」
「ええ」
エレオノールは1度だけ息を整えた
「わたくし、母親になれるのか不安でしたわ」
「……エレオノールさんが?」
「ええ。とても」
「でも、エレオノールさん、やさしいよ」
「ありがとう。けれど、それでも不安になるの。わたくし、自分の親のことをあまり覚えていないから」
「うん」
「だから、良い母親になれるのか、時々とても怖くなるのですわ」
浅葱は目を丸くした
エレオノールにも、そんなふうに怖がることがあるのだと、初めて知った顔だった
「紫苑さんも?」
と、おそるおそる聞く
「俺も」
「何が?」
「父親になれるかなって」
「……」
「俺、自分の親みたいになったらどうしようって、ずっと怖かった。だから浅葱をびっくりさせた時も、すごく怖かったんだ。また間違えたらどうしようって」
浅葱はますます驚いている
まるで、大人は最初からちゃんとしていると思っていた子どもの顔だった
「みんな……こわかったの?」
「うん」
「ええ」
「……ぼくだけじゃなかったんだ」
「そうだよ」
と紫苑が言う
「浅葱だけじゃない」
「わたくし達、みんな揃って不安だったのですわ」
「……なんか」
「ん?」
「へん」
「でしょ?」
「ふふ」
「でも、ちょっとおかしいね」
「そうですわね」
3人の間に、小さな笑いが生まれた
ぴんと張っていた糸が、少しだけゆるむ
浅葱はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと聞いた
「赤ちゃんうまれたら……やっぱり、いろいろ変わる?」
紫苑とエレオノールは顔を見合わせた
先に答えたのは紫苑だった
「変わるところは、あると思う」
浅葱の肩が少しだけこわばる
だが紫苑は続けた
「たぶん、家の中は今よりもっとにぎやかになるし、赤ちゃんが泣いたら、そっち行くことも増えるから。……浅葱にちょっと待っててもらう時も、あるかもしれない」
「……うん」
「でも」
紫苑は浅葱の頭に手を置く
「浅葱の居場所は変わらないよ。そして、浅葱が大事だってことも、変わらない。……赤ちゃんが生まれても、浅葱は俺たちの息子だから」
「ずっと?」
「ずっと」
「ほんとに?」
「ほんとに」
エレオノールも頷く
「約束しますわ。わたくし達は、あなたを置いていきません」
浅葱の目に、じわりと涙が溜まる
でも今度の涙は、前みたいな絶望の涙ではなかった
「……ぼくも、言っていい?」
「もちろん」
「ぼくね」
浅葱は鼻をすすった
「赤ちゃん、ほんとはすごく楽しみ」
「うん」
「でも、こわかった」
「うん」
「でも……今もちょっとこわいけど」
「うん」
「それでも、ちゃんとおにいちゃんになりたい」
「……」
「ぼく、がんばる」
「無理して頑張らなくて大丈夫だよ」
と紫苑がすぐに言う
「頑張れない日があってもいいし、嫌だって思う日があってもいい。その時はちゃんと言って」
「言っていいの?」
「いい」
「“お兄ちゃんなんだから”って、がまんしなくていい?」
「我慢しなくて構いませんわ。必要な時はお願いすることもあるでしょうけれど、それは“ひとりで耐えなさい”という意味ではありません。困ったら、一緒に困りましょう?」
「……一緒に?」
「そう、一緒に」
「家族だからな」
浅葱は、とうとう泣き笑いみたいな顔になった
「なんか……みんな、へただね」
「ぶっ」
紫苑が吹き出す
「いきなり辛辣だなぁ」
「だって、みんな言わないんだもん」
「……否定できませんわ」
「お前もだろ、浅葱」
「ぼくも?」
「お前も」
「そっかあ……」
しばらくして、3人は本当におかしくなってしまって、声を立てて笑った
不安で、怖くて、でも同じように言えなかったのだとわかったら、少しだけ滑稽で、少しだけ愛おしかった
笑いが落ち着いたあと、エレオノールがそっと言う
「では、決めましょう」
「何を?」
「困った時は、ちゃんと話すこと。隠して、ひとりで抱え込まないこと。怖い時は、怖いと言うこと」
「頑張る」
「ぼくも」
「では、約束ですわね」
3人は手を重ねた
大人の手と、大人の手と、子どもの小さな手
形は違う
大きさも違う
それでも今、この瞬間に重なった手は、ちゃんと“家族の手”だった
その夜
眠る前の空気は、昨日までと少し違っていた。
不安が全部消えたわけではない
これからも、きっと何度も迷うだろう
けれど3人は知った
黙ってすれ違うより、話して笑い合う方がずっといいのだと
家族とは、最初から完成しているものではなく、こうして何度でも本音をぶつけ合いながら、少しずつなっていくものなのだと
浅葱は布団に潜り込みながら、小さく呟いた
「……なんか、ちょっとだけ安心した」
「ちょっとだけ?」
「だって、いっぱい安心するのは、これから」
「……そうだね」
紫苑がそう答え、エレオノールがやさしく微笑む
その寝室には、まだ生まれていない小さな命の気配と、ようやく言葉を交わせた3人のぬくもりが、静かに満ちていた




