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鳥籠に咲いた愛の花  作者: 朝凪
4章

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41/45

母親になれるでしょうか

妊娠がわかってから、エレオノールの毎日は少しずつ変わった

朝に目が覚めると、まずは自分のお腹へ手を当てる

まだ目に見えるほどの変化はない

そこに新しい命がいる実感は、かすかにしかわからない

それでも、そこに“いる”のだと思うだけで胸が満たされる


「……おはようございます」


まだ薄暗い寝室で、小さくそう呟く

それが誰に向けた言葉なのか、自分でも少しわからない

紫苑なのか、お腹の子なのか、それとも新しい朝そのものなのか

隣では紫苑がまだ眠っている

いつもより少しだけ眉間に皺が寄っていて、相変わらず器用ではない寝顔だ

エレオノールはそっと身を起こし、その顔を覗き込んでクスッと笑う


「あなた、寝ている時まで難しいことを考えていそうですわ」


返事はもちろんない

けれど彼の寝顔を見ると、なぜだか少しだけ安心した

紫苑は、不器用だ

優しいのに、その優しさを飾るのが下手で、心配性なくせに平気なふりをする

そして、エレオノールのことになると驚くほど過保護になる

妊娠がわかってからというもの、その傾向はますます強くなっていた


「エレオノール、今日はたくさん歩いちゃダメ」

「わたくし、そこまで虚弱ではありませんわ」

「虚弱とかじゃなくて、念のためだよ」

「念のためが多すぎます」

「多くていいの」

「でも、棚の上のお皿を取るだけで“俺がやる”と仰るのは、いささか大袈裟ですわ」

「落としたら危ないでしょ?」

「その理屈ですと、世の中のあらゆる家事が禁止になります」

「できるなら俺はそうしたいな」

「まあ」


朝食の席でそんな会話を交わしながら、浅葱が呆れ顔で口を挟む


「紫苑さん、また?」

「またって何なの」

「エレオノールさん、そんなにすぐこわれないよ?」

「そういう問題じゃないよ」

「じゃあ何の問題?」

「……大事だから」


浅葱はきょとんとしたあと、すぐにニヤッと笑った


「じゃあ、すごくだいじなんだ」

「うん」

「ふうん」

「何?」

「べつにー」


その“わかってますよ”と言いたげな顔に、紫苑がむっとする

エレオノールは二人のやり取りを見ながら、静かに微笑んだ

大事にされている。守ろうとしてもらえている

そのことが嬉しい

けれど、嬉しいと同時に、胸の奥に別の感情が芽吹き始めているのを、エレオノールは自覚していた

それはまだ輪郭の曖昧な、不安だった


ーーーーーーー


その日の午後

浅葱は学校へ行き、紫苑は店の用事で出かけている

部屋には珍しく、エレオノールひとりだけが残されていた

洗い終えたティーカップを拭き、窓辺の花の水を替え、軽く本棚を整える

いつものように穏やかな家事の時間

だが、その日は妙に静けさが沁みた

静かな時間が増えると、人は考えなくていいことまで考えてしまう

エレオノールは、ふと鏡の前に立った

柔らかな光の差し込む寝室の鏡には、相変わらず見慣れた自分の姿が映っている

ーー白い肌

ーー栗色の髪

ーー血のような色を宿した唇と瞳

今もゾッとするほどの美しさを持つ、25歳の吸血鬼

どこから見ても、姿はいつも通りだ

けれど自分の中には、確かに変化が起きている

“母になる”という変化が


「……お母様」


その言葉を、鏡の中の自分に向かって言ってみる

すると、途端に妙な心地がした

似合わないわけではない

けれど、どこか現実味が薄い


「わたくしが……母親」


口にした瞬間、嬉しさより先に、戸惑いが胸に満ちた

ーー母親

その言葉が自分の中でうまく根を下ろさないのは、なぜだろう

エレオノールはしばらく鏡を見つめたあと、そっと椅子へ腰掛けた

そして、考えてしまう

自分の母は、どんな人だったのだろう

もちろん、存在を忘れていたわけではない

愛されていなかったとも思わない

ただ、記憶が曖昧なのだ

幼い頃、両親は人間に殺された

その時の自分はまだ小さく、記憶は血の色や、夜の冷たさや、兄に抱き上げられた腕のぬくもりばかりが断片的に残っている

肝心の“父と母の顔”が、どうしてもはっきりしない

ーー笑った顔

ーー怒った顔

ーー優しく抱きしめてくれた時の表情

そういったものが、霧の向こうに消えてしまっている


「どうして……」


ぽつりと零した声は、自分でも驚くほど弱かった

覚えていたかった

今になって、そう強く思う

ドレスの着こなし方や、淑女としての振る舞い、紅茶の淹れ方や、食事の作法……そういうものは後からでも学べた

兄であるオーギュストが、足りない部分を埋めてくれた

でも、母親のなり方は?

子どもへ向ける眼差しの温度や、抱きしめる時の腕の強さや、何でもない夜に子守唄を歌う声のやわらかさは?

そういうものは、誰が教えてくれるのだろう?


「わたくしは、知りませんわ……」


自分が知らないことを思い知る時、人は急に幼くなる

エレオノールは、完璧な淑女でも美しい純血の吸血鬼でもなく、ただ“母を思い出せない娘”になっていた


ーーーーーーー


その夜、紫苑が帰ってくると、エレオノールはいつも通りに迎えた

「おかえりなさいませ」と優しく言い、コートを受け取る

何も変わらないように振る舞うことはできた

けれど紫苑は、やはりそういうところだけ妙に鋭い


「エレオノール」

「どうしましたか?」

「何かあった?」

「いいえ?」

「その“いいえ”は何かある時だね」

「まあ、疑い深い方」


軽く笑ってみせても、紫苑は納得しない

少し眉を寄せたまま、エレオノールの顔を見つめてくる


「体調が悪い?」

「それは大丈夫ですわ」

「じゃあ、何?」

「……」

「言って欲しいな」

「今でなくても?」

「今では駄目な理由ある?」

「……」


ある。言葉にすると、自分でも崩れてしまいそうだったから

けれど、ここで誤魔化しても、きっと紫苑は気づいてしまう

エレオノールは少しだけ視線を落とした


「紫苑」

「うん」

「あなたは……“母親らしい人”を知っていまして?」

「え?」


予想外だったのか、紫苑はきょとんと目を瞬いた


「どういう意味……?」

「そのままの意味ですわ。あなたの記憶の中に、“母親とはこういうものだ”という方はいて?」

「……」

「わたくし、今日ずっと考えていたの」

「……うん」

「でも、わからなくて」


紫苑はそこで、ようやくエレオノールの言葉の行き先を理解したらしい

彼の表情が、少しだけやわらかくなった


「母親にどうしたらなれるか……ってこと?」

「ええ」

「……」

「わたくし、お母様のことをあまり覚えていないでしょう?」

「うん」

「それが急に、すごく心細くなってしまって」


その声音は静かだった

泣いているわけではない

けれど、感情を押し殺している静けさだと、紫苑にはわかった


「わたくしね、思い出せないのです」

「お母様のお顔も、お声も、何を仰ってくださったのかも……」

「覚えていたいのに、うまく掴めない」

「そうすると、怖くなるのですわ」

「母親を知らないわたくしが、母親になれるのかしらって」


紫苑はすぐには答えなかった

その沈黙に、エレオノールは少しだけ肩を落とす


「変でしょう?」

「いや」

「“なってみればわかる”というものなのかもしれませんけれど……わたくし、どうしても」

「変じゃない」

「え?」

「変じゃないよ」


紫苑は一歩近づいて、エレオノールの手を取った


「むしろ、ちゃんと考えてるから怖くなるんでしょ?」

「……」

「良い母親になりたいって思ってるから、不安なんでしょ?」

「……ええ」

「なら、それは変じゃないよ」


エレオノールは紫苑を見つめる

彼の言葉は気休めではない。器用でもない

ただ、誠実だった


「でも、わたくし……」

「うん」

「本当に、何もわからないの」

「……………」

「赤ちゃんが泣いたら、どうしたらいいのかしら?熱が出たら?傷ついた時、何て声を掛ければいいのかしら?抱きしめるのが遅かったら?間違えたら?わたくしが、知らないせいでこの子を寂しくさせたら……」


そこまで言って、エレオノールは自分の唇を押さえた

1度言葉にしてしまうと、次々に不安が溢れてきてしまう

紫苑は黙って彼女の話を聞いていた

そして、しばらくしてからぽつりと言う


「………前に、浅葱が風邪を引いた時さ、エレオノールはずっとそばにいたじゃない?」

「……」

「ご飯を食べやすいように工夫して、額の熱を何回も見て、眠るまで手握ってた」

「浅葱がうなされた時も、すぐ気づいて声掛けてた」

「俺はあれを見て、すごいなって思ってたよ。あれは、もうだいぶ“母親”っぽかった気がするけど」


エレオノールは目を見開いた


「そんなこと……」

「ある」

「でも、あれはただ、心配で」

「それでいいと思う」

「え?」

「“心配でたまらない”の積み重ねが、良い親なんじゃないかな。少なくとも、エレオノールのその感じは本物だよ」


あまりにも真っ直ぐに言われて、エレオノールは思わず目を伏せる

頬が少し熱い


「……ずるいですわ」

「何が」

「そうやって、不意にやさしいことを仰るから」

「思ったままを言っただけだよ」

「わかっております」

「ならいいじゃない」

「よくありません。嬉しくなってしまうもの」

「ふふ」


紫苑が少し照れたように笑う

その様子に、エレオノールはまた笑ってしまった


ーーーーーーー


だがその夜、眠る前になると、また別の寂しさが顔を出した

紫苑は先に寝息を立て始め、部屋には穏やかな静けさが満ちる

エレオノールは眠れないまま、天井を見つめていた

少し落ち着いた。紫苑と話したことで、心が少し軽くなったのも事実だ

それでも、胸の奥にある穴みたいなものは完全には消えてくれない

ーー母の記憶がない

その事実は、時間が経つほど逆に重くなる

幼い頃は、それでも生きるのに精いっぱいだった

兄がいてくれた

オーギュストはまだ若く、それでも必死にエレオノールを守り、失ったものを見せないようにしてくれた

けれど、今になって思う

兄もきっと、本当は同じように寂しかったはずなのだと


「お兄様……」


小さく呼んでみる

もちろん返事はない

でも、その名前を口にすると少しだけ心がほどける

オーギュストは、エレオノールにとってずっと“家族”そのものだった

兄であり、親代わりでもあり、庇護者でもあり……だがそれは、あくまで兄の愛だ

“母”の記憶を埋めるものとは少し違う


「お母様は、どんな方だったのかしら?わたくしに、何を話してくださったのかしら?わたくしは、ちゃんと愛されていたのよね………。…ええ、知っています。知っていますわ。でも、覚えていたいのです」


涙は出なかった

出ないまま、ただ静かに苦しい

泣けるほどはっきりしていないからこそ、寂しさだけが残る

その時、不意に声がした


「エレオノール?」


紫苑が半分眠そうな顔でこちらを見ていた

起こしてしまったらしい


「ごめんなさい。起こしてしまいました?」

「いや……目が覚めただけ」

「すぐ寝ますわ」

「どうしたの?」


紫苑はゆっくりと語りかける


「……お母さんの顔、思い出したかったの?」

「……ええ」

「声も」

「ええ。でも、駄目でしたわ」

「……」

「こんなに大事な時なのに、何も思い出せないの」


今度こそ、声が少し震えた


「思い出せたら、少しは安心できたかもしれないのに。……わたくし、子どもみたいですわね」

「子どもでいいんじゃない?」


紫苑の返事は、あっさりしていた

エレオノールが目を瞬くと、彼は少しだけ困ったように笑う


「大事な人を思い出せなくて寂しいって、当たり前だと思うけど」

「……」

「エレオノールは、今までずっと我慢してきたんじゃない?」

「そう、なのかしら」

「たぶんね」


紫苑はそう言ってから、少し考えるように沈黙した

それから、ぽつりと続ける


「思い出せなくてもさ」

「え?」

「エレオノールのお母さんが、君を大事にしてたことは、きっと消えてないよ」

「……」

「エレオノールって、たくさん愛されて育った感じがするから」

「まあ」

「育ちが良いし、根っこがやさしいし。……変なところで好奇心が強いけど」

「最後の一言は余計ですわ」

「でも本当でしょ?」


少しだけ笑う空気が生まれる


「無理に誰かを真似しなくても良いと思う」

「……………」

「エレオノールがエレオノールのまま、子どもを好きでいたら、それで十分なんじゃないかな」


その言葉は、慰めというより祈りに近かった

正解を知っている人の断言ではない

でも、わからない者同士だからこそ言える、あたたかな推測だった


「……そうなら、いいですわね」

「いいよ」

「本当に?」

「本当に」

「どうしてそんなに言い切れますの」

「エレオノールが子ども好きなの、知ってるからね。……浅葱のこと、あんなに大事にしてるの見てるから。それに」


紫苑は少しだけ真面目な顔になった


「生まれてくる子も、たぶんエレオノールのことが大好きになるよ」

「……」


エレオノールは今度こそ、本当に泣きそうになった

けれど泣く代わりに、ふわりと笑った


「ありがとうございます、紫苑」

「お礼を言われるほどじゃ」

「いいえ。今、すごく救われましたもの」


紫苑は照れくさそうに笑った

エレオノールはそっと彼の肩へ寄りかかった


「ねえ、紫苑」

「どうしたの?」

「もし、わたくしが母親として間違えたら」

「うん」

「その時は、ちゃんと教えてくださる?」

「その時は、一緒に考えようか」

「……ええ」

「エレオノールも、俺が父親として変なことしてたら止めてね」

「もちろんですわ」

「じゃあ、約束」


それは、あまりにも簡素な約束だった

けれどエレオノールには、その簡素さがありがたかった

完璧であることを求められない

ただ、一緒に考えようと言ってもらえる

そのことが、胸をじんわりと温める


ーーーーーーー


翌日

エレオノールは、自分から兄の屋敷を訪ねた

兄は妹の来訪を心から歓迎し、ものすごい勢いで応接室へ通した

菓子も紅茶も、何もかも最高のものが並ぶ


「それで、エレオノール」

「はい」

「今日はどうした。何か欲しいものでもあるか?」

「あの、お兄様」

「うん?」

「わたくし達のお母様は、どんな方だったのかしら」


その一言で、オーギュストの表情が静かに変わった

驚きと、懐かしさと、少しの痛みが混じったような顔


「……急だな」

「ええ。急に知りたくなってしまって」

「そうか」


オーギュストはしばらく目を伏せていたが、やがて静かに口を開いた


「優しい方だった」

「……」

「だが、ただ優しいだけではない。芯の強い方だったよ」

「お前が花を摘んでは転び、泣きそうになっていた時も、“自分で立ちなさい”と仰っていた」

「でも、お前が立ち上がれたら、誰より嬉しそうに笑っていた」

「お前のことを、とても愛していた」


エレオノールは息を呑む

想像の中に、ぼんやりとした輪郭が灯る


「わたくしに……?」

「もちろんだ」

「お前はあの方の宝物だった」


オーギュストはそこで少し微笑んだ


「父上も母上も、お前を見る時は目がやわらかくなった」

「……本当?」

「そうだ。……お前は愛されていたよ。疑う余地もなく」


その言葉を聞いた瞬間、エレオノールの胸の奥で、固くなっていた何かが少しだけほどけた


覚えていなくても

はっきり思い出せなくても

自分はたしかに愛されていた


その事実だけは、記憶よりも確かな形でそこにあった


「……ありがとうございます、お兄様」

「気にするな」

「少し、安心しましたわ」

「ならよかった」

「それに」

「うん?」

「わたくし、母親になるのが少し怖くて」

「……」

「でも、今日は少しだけ前を向けそうです」


オーギュストは妹を見つめ、それからやわらかく微笑んだ


「お前はきっと、大丈夫だ」

「何故そう言い切れますの?」

「愛されて育った者は、その愛を自分で思うよりちゃんと受け継いでいる」

「お前は忘れているのではない」

「お前の中に、もう溶け込んでいるだけだよ」


エレオノールはその言葉に、静かに目を伏せた

泣きそうになるのを、そっとまつ毛に隠す

自分の中に、母の愛が溶け込んでいる

もしそれが本当なら

もし本当に、今の自分のやさしさや、誰かを大事に思う気持ちの中に、母から受け取ったものが流れているのなら

自分は、ひとりきりで母になろうとしているわけではないのかもしれない

過去の記憶は曖昧でも、受け取った愛だけはちゃんと残っている

その愛を、今度は自分が子どもへ渡していけばいい

そう思えた時に、エレオノールはようやく“母になる”という言葉を少しだけ自分のものとして抱きしめられる気がした

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