父親になれないかもしれない
赤ちゃんができたとわかってから、家の中の空気は目に見えて変わった
もちろん、良い意味でだ
エレオノールは以前にも増して笑みを見せるようになり、浅葱はことあるごとに「赤ちゃんって、今どのくらい?」と訊いてくる
紫苑もまた、嬉しくないわけがなかった。むしろ嬉しすぎて、何かにつけてエレオノールの様子をうかがってしまうほどだ
「重いものを持たないで」
「これは重くありませんわ」
「駄目。俺が持つよ」
「紫苑、これはクッションですよ?」
「軽くても駄目」
「まあ」
そう言って取り上げられたクッションを見て、エレオノールは思わず笑った
その隣で浅葱が、わかりやすく呆れた顔をする
「紫苑さん、しんぱいしすぎ」
「いいの」
「クッションだよ?」
「クッションでも」
「じゃあ、ぼくがもつ」
「浅葱も走らないでね」
「なんで?」
「なんでも!」
浅葱はふくれっ面になり、エレオノールは「ふふっ」と上品に笑う
一見すれば、幸せな家族の光景だった
けれど紫苑の胸の奥には、ここ数日、ずっと消えないざわめきがあった
それは喜びの裏側にある、ひどく暗くて冷たい感情だった
ーー俺が、父親
その言葉を頭の中で思い浮かべるたびに、胸の奥がきゅっと縮こまる
守りたい。幸せにしたい
エレオノールも、生まれてくる子どもも、浅葱も
その気持ちは本物だ
なのに、“父親”という役目が自分に似合わない気がしてならなかった
紫苑には、父親の記憶がない
父親というものが、分からない
知っているのはただひとり
櫻井真一郎だけだった
ーーーーーーー
その日も、紫苑はバーの仕込みに出ていた
グラスを磨き、酒瓶の位置を整え、カウンターを拭く
いつもなら身体に染みついたようにこなせる作業なのに、今日はどうにも気が散る
「おい紫苑」
「……あ、はい」
「さっきから同じグラス3回磨いてるぞ」
「え」
「穴でも開ける気か」
「すみません」
顔を上げると、櫻井が呆れたように笑っていた
58年分の人生が刻まれた顔には、相変わらず大きな器と人の悪さが同居している
紫苑にとっては、昔から見慣れた顔だった
「なんだ。エレオノールちゃんと喧嘩でもしたか」
「してませんよ」
「浅葱が宿題サボったか」
「それでもないです」
「じゃあ何だ。まさか更年期か?」
「殺しますよ」
「元気はあるな」
櫻井は煙草を指で弄びながら、紫苑をじっと見た
からかっているようでいて、観察の目は鋭い
昔からそうだった
紫苑が何も言わなくても、だいたいのことは見抜かれてしまう
「で?」
「……」
「言えよ」
「別に」
「別にって顔してねぇな」
「……」
「お前、そういう時だけ昔の捨て猫みてぇな顔するよな」
紫苑は苦い顔をした
櫻井はそのまま追い打ちをかけるように、低い声で言う
「話せることなら聞く。話せねぇことなら酒でも飲ませる。どっちだ」
「仕事前に飲ませる気ですか」
「じゃあ話せ」
「横暴ですね……」
紫苑はグラスを棚に戻し、ひとつ息を吐いた
言いたくないわけではなかった
ただ、口にしてしまうと、本当に自分の不安が形を持ってしまう気がした
「……子ども、できたんです」
「知ってる」
「知ってるんですか?」
「浅葱が昨日、自慢しに来た」
「早いなぁ……」
目に浮かぶようだった
きっと胸を張って、「ぼく、おにいちゃんになるんだよ!」とでも言ったのだろう
櫻井は口元を少し緩めた
「めでてぇ話だ」
「……ですね」
「なのにその顔か」
「……」
沈黙が落ちる
「俺」
紫苑はようやく口を開いた
「父親を知らないんですよ」
櫻井は驚かなかった
「そうか」とだけ、短く返した
その反応がありがたかった
大げさに励まされたり、「お前なら大丈夫だ」と軽く言われたりしたら、逆に話せなくなっていたかもしれない
紫苑は言葉を探しながら、ゆっくり続ける
「嬉しいんです。ほんとに」
「うん」
「エレオノールに子どもができて、浅葱も喜んでて……俺も嬉しい」
「うん」
「でも、同時に、怖くて」
「何が」
「……俺、父親にちゃんとなれるかなって」
言ってしまうと、思った以上に苦しかった
喉の奥に棘が刺さったみたいに、声が少し掠れる
「俺、今でも時々思うんです」
「……うん」
「俺の中にも、あの親と同じ血が流れてるって。血が繋がってる以上、完全には切れないんじゃないかって」
「……………」
「それで、もし……もし生まれてくる子とか浅葱に、あの親と同じ目を向けたらって思うと……」
最後まで言えなかった
そんなこと、想像したくもない
なのに恐ろしいほど鮮明に浮かんでしまう
櫻井はそこでようやく、短く息を吐いた
「紫苑」
「はい」
「まず1個、言っとく」
「……」
「本当に親に似てるやつは、自分が親みてぇになるかもなんて悩まねぇ」
「……そういうものですか」
「そういうもんだ」
紫苑は少しだけ顔を上げる
櫻井はカウンターに肘をつき、まっすぐに言った
「お前が怖がってるのは、“傷つけたくない”からだろ」
「……はい」
「守りたいんだろ」
「……はい」
「なら、少なくとも出発点は違う」
その言葉は、紫苑の胸に少しだけあたたかく落ちた
けれど、完全には飲み込めない
「でも、怒鳴るかもしれない」
「怒鳴る時はあるだろうな」
「……」
「子どもが危ないことしたら、でかい声も出る」
「それで傷つけたら」
「傷つけたら、謝れ」
あまりにも当たり前に言われて、紫苑は思わず瞬いた
「謝る……」
「お前、親ってのは完璧じゃなきゃいけねぇと思ってるのか」
「いや……」
「そんなもん、無理だ」
「……」
「間違える時は間違える。余裕がない時もある。言いすぎることだってある」
「でもな、その後どうするかだ。ちゃんと謝る。話す。抱きしめる。次から気をつける」
「それをやるのが、親だ」
紫苑は何も言えなかった
自分の知っている親は、謝らなかった
話さなかった
抱きしめなかった
だからこそ、今の言葉はまるで新しい定義みたいに聞こえた
「俺、そんな簡単に出来るかな………」
「簡単じゃねぇよ」
「ですよね」
「でも、やるしかねぇだろ」
櫻井はそこで、少しだけ笑った
「なあ紫苑。お前、浅葱のことどう思ってる」
「どうって……大事ですよ」
「うん」
「手はかかるし、生意気な時もあるし、妙に勘が鋭くて怖い時もありますけど……」
「悪口か?」
「違います」
「じゃあ何だ」
「……かわいいです」
「うん」
「大事で、守りたい」
「うん」
紫苑の声は、自然とやわらかくなっていた
「転んだら痛くないか気になるし、ちゃんと食べてるか気になるし、浅葱が変な顔してると、何かあったのかって思います」
「俺たちの家が、浅葱の帰ってくる場所であってほしい……そう思ってます」
櫻井は頷く
「それだよ」
「え?」
「もう始まってんだよ、お前の父親は」
「……」
「血が繋がってるかどうかなんざ関係ねぇ」
「お前はもう、とっくに浅葱の親みてぇな顔してる」
紫苑は目を見開いた
そう言われたことが、なかった
浅葱の保護者。家族
そういう言葉はあっても、“親みたいな顔”と言われると、胸の奥が妙に熱くなる
「俺が……?」
「そうだ」
「でも、まだ全然」
「全然でいいんだよ」
櫻井は鼻で笑う
「最初から上手くやれる親がどこにいる?赤ん坊だってそうだ。最初は泣くしかできねぇ。親も一緒だ、最初は手探りだ」
「でも一緒に生きてるうちに、だんだん形になっていく」
「家族なんて、そういうもんだ」
ーーーーーーー
その日の帰り道、紫苑は櫻井の言葉を繰り返し思い出していた
ーーもう始まってんだよ、お前の父親は
そんなふうに言われるとは思わなかった
家に近づくと、窓からあたたかな灯りが漏れていた
その灯りを見るだけで、少しだけ肩の力が抜ける
昔の家では感じたことのない感覚だった
玄関を開けると、浅葱の声が真っ先に飛んできた
「おかえり!」
「ただいま」
「紫苑さん、今日ちょっと遅い」
「ごめんね」
「おしごとたいへん?」
「そうだね」
靴を脱いで中へ入ると、エレオノールがキッチンから顔を出した
淡い色のエプロン姿がよく似合っている
「おかえりなさいませ、紫苑」
「ただいま。無理してない?」
「第一声がそれですのね」
「大事だから」
「ふふ。大丈夫ですわ」
エレオノールは笑っている
その笑顔を見るだけで、胸の奥にあった硬いものが少しやわらぐ
夕食は、浅葱が手伝ったというスープが並んでいた
「ぼく、にんじん切った」
「ほんとに?」
「ほんと」
「指は?」
「きってない!」
「えらいよ」
「えへへ」
紫苑が頭を撫でると、浅葱は少し照れくさそうに肩をすくめた
その仕草が子どもっぽくて、思わず笑ってしまう
「でも、紫苑さん」
「ん?」
「ぼく、ちょっとだけ怒られた」
「何した」
「にんじんが大きすぎた」
「それは怒られてねぇだろ」
「“もっと小さく切ってくださいませ”って言われた」
「ふふ。怒ってはいませんわ」
「じゃあ注意?」
「指導ですわね」
「どっちでもいいんじゃない?」
3人で笑う
その時間は確かに平和だった
けれど食事の途中、浅葱がスプーンを落としかけた時だった
「浅葱、危ない!」
思わず、紫苑の声が強くなる
浅葱の肩がびくっと震えた
スプーンは皿のふちに当たって、かしゃんと乾いた音を立てる
その一瞬、紫苑の全身からさっと血の気が引いた
浅葱は目を丸くして、紫苑を見ている
怯えた、というほどではない
でも、驚かせたことは確かだった
「……あ」
「ご、ごめんなさい」
「違う」
紫苑はすぐに言った
自分でも驚くほど必死な声が出た
「ごめん。俺、言い方きつかったね」
「……」
「怒ったわけじゃない。熱いスープをこぼしたら危ないと思って」
「……うん」
浅葱は小さく頷く
エレオノールが静かに場をつなぐように微笑んだ
「浅葱、スプーンを取り替えましょう」
「うん……」
「紫苑、わたくしが持ってきますわ」
「……うん」
その後も食事は続いた
浅葱もいつもの調子に戻って話し始めた
けれど紫苑の胸の中には、冷たいものがずっと残っていた
たった今、自分は何をした?
危ないと思って咄嗟に声が出た
それはそうだ
でもあの一瞬、浅葱は確かに肩を震わせた
ーーもし、これが増えていったら?
ーーもし、そのうち慣れて、もっと強い声を出すようになったら?
ーーもし、あの母親みたいに
食事のあと、紫苑は台所の隅で黙って立っていた
流し台の前で、洗ったばかりの手を無意味に見つめる
「紫苑」
エレオノールが、静かに声をかけた
振り向くと、彼女は少し心配そうな顔をしている
「先ほどのこと、気にしていらっしゃるの?」
「……」
「浅葱なら、もう元気ですわ」
「それはわかってる」
「では、どうしてそんなお顔を?」
「……怖かった」
エレオノールが目を瞬く
紫苑は小さく息を吐いた
「俺、自分の声で浅葱がびくってしたの見て……怖くなったんだ」
「……」
「これが1回ならいい。でも、2回3回って増えたら?………慣れたら、どうする?そのうち、“これくらい普通だ”って思うようになったら?そうやって、母親みたいになっていったら……」
最後は、ほとんど吐き出すような声だった
エレオノールは少し黙っていたが、やがて紫苑の前まで来ると、そっとその手を取った
「紫苑」
「……」
「あなたは、今、怖いと思ったのでしょう?」
「うん」
「それなら、大丈夫ですわ」
「何が」
「あなたは、人を傷つけることに鈍くはないもの」
「……」
「鈍い人なら、自分の声で相手が震えたことすら気づきません」
「気づいて、苦しくなって、どうにかしたいと思っている時点で……あなたはもう、あの方とは違います」
紫苑は目を伏せた
やさしい声だった
けれど、完全には安心できない
不安というのは、そう簡単に消えてはくれない
「でも、俺……」
「完璧な父親になろうとなさっているの?」
「……そういうわけじゃ」
「少しは、そうでしょう?」
見透かされて、紫苑は苦笑する
エレオノールは微笑んだ
「わたくしも同じですわ」
「え?」
「良い母親になりたい、間違えたくない、寂しい思いをさせたくない……そう考え始めると、怖くなりますの」
「……」
「けれど、最初から何もかも完璧になど、きっとできません」
「じゃあ、どうする?」
「そのたびに、話すのですわ」
エレオノールはそう言って、紫苑の手をぎゅっと握った
「怖かったら、怖いと言ってください」
「間違えたと思ったら、そう言ってください」
「わたくしも、そうします」
「1人で“父親”にならなくてよろしいの」
「皆で、家族になるのですから」
その言葉を聞いた瞬間、紫苑は少しだけ息がしやすくなった
“父親”という役目を、たった1人で背負おうとしていたのかもしれない
だが実際には違う
エレオノールがいて、浅葱がいて、これから生まれてくる子がいる
家族は、役割を1人で背負うものではなく、一緒に形を作るものなのだ
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「エレオノールも、不安なんだね」
「ええ。とても」
「そっか」
「ですから、あなたばかりが強がらないでくださいませ」
「耳が痛いなぁ……」
「ふふ」
その時、風呂場の方から浅葱の声が飛んできた
「紫苑さーん!」
「んー?」
「シャンプーなくなったー!」
「はいはい」
思わず2人して吹き出す
さっきまで張りつめていた空気が、少しだけほどけた
ーーーーーーー
夜。浅葱が眠ったあと、紫苑はひとりでベランダに出た
夜風が頬を撫でる
街の明かりは遠く、空には薄い月が浮かんでいた
今日のことを思い返す
櫻井の言葉
エレオノールの手のぬくもり
浅葱が自慢げにスープを語っていた顔
びくっと肩を揺らした一瞬
「ごめん」とすぐ言えた自分
父親になれるか、まだわからない
きっとこの先も、何度も怖くなる
間違えるかもしれない
失敗するかもしれない
ーーでも
「……やるしかない、か」
櫻井の言葉を、ぽつりと口に出す
本当にその通りだった
守りたいと思ってしまった以上、逃げられない
いや、逃げたくない
怖いからこそ、向き合うしかない
あの親みたいになりたくないなら、違う選択を積み重ねるしかない
謝ること
話すこと
抱きしめること
そのひとつひとつを、自分で覚えていくしかないのだ
「紫苑」
振り返ると、エレオノールがガラス戸の向こうに立っていた
薄い夜着の上からカーディガンを羽織っている
月光の下で、彼女はやわらかく微笑んだ
「冷えますわ」
「エレオノールこそ」
「あなたがなかなか戻ってこないから」
「……ごめんね」
「いいえ」
彼女は隣に立つ
少しだけ肩が触れる
「何を考えていらしたの?」
「父親って、なんだろうなって」
「難しい問いですわね」
「だよね」
「でも、ひとつだけわかります」
「何を?」
「あなたは、なろうとしている」
紫苑は目を細める
エレオノールはまっすぐに言った
「なろうとしている人は、きっとなれますわ」
「時間はかかっても」
「迷っても」
「立ち止まっても」
「ちゃんと、なれます」
その言葉に、紫苑は少しだけ笑った
自信満々に言い切るような口調ではない
それでも、不思議と信じてみたくなる声音だった
「……そうだといいね」
「そうですわ」
「言い切るなあ」
「ええ。わたくし、あなたには甘いですから」
「知ってる」
「でしょう?」
夜風の中で、2人は並んで月を見上げる
その静けさは、もう昔の家の静けさとは違った
息を潜めるための沈黙ではない
誰かと寄り添うための静けさだった
紫苑はそっと、自分の手を見た
この手で何かを壊してしまうのではないかと怖くなる時がある
けれど同時に、この手で守りたいものも、たしかにある
ならきっと、大丈夫だ
そう簡単には言えない
でも、そうなれるように、生きていくことはできる
父親になれないかもしれない
その恐れはまだ消えない
けれどその恐れを抱えたままでも、1歩ずつ進むことはできる
紫苑は月を見上げながら、胸の奥で静かに誓う
完璧でなくていい
ただ、逃げないでいたい
何度でも話して、何度でも手を伸ばして、家族のそばに立ち続けたい
それが今の自分にできる、精いっぱいの“父親”の始まりだった




