幕間2 大聖女リア
──東の結界が破られた。
その一報が入ったのは、夏の早朝のことでした。何層にも及ぶ、あまりに大規模な崩落で、こんな遠距離からでは修復ができません。
聖女たちも、ヴラニミルも、顔色を失って茫然としていました。
私は結界構築室を出て、若い黒翼竜の元へ向かいました。
やれることはひとつしかありません。東の結界の起点まで飛んで、その場で一気に構築しなければ、いずれ魔物は王都に到達するでしょう。
そして、それができるのは私だけなのです。
後ろから足音が追いかけてきました。
そして、ぱっ、と手首を掴まれました。
「何をする気だ」
ヴラニミルでした。
彼らしくもなく、慌てていました。
「何って、結界構築に決まってるだろう」
「死ぬぞ」
「だろうね。でも、仕方ない」
彼は一瞬、怯みました。
その時のどうしようもない状況を、彼ほど把握している人間は他にいなかったでしょう。
それでも彼は、私の手を離しませんでした。
私はにやりと唇の端を上げました。
「君、可愛いよな」
「はぁ?」
「ひとつ教えておいてやる。霊鹿に乗るにはそのとげとげの聖力をなんとかしろ。痛くて仕方ない」
「……うるさいよ」
「帰ったら、聖力の形状変化について教えてやる。楽しみに待っておけ」
ヴラニミルは何も答えず、ただ私を見つめていました。私は彼の肩をぽんと叩き、笑いました。
「最終防衛線の五層までは君に任せたからな。死んでも守れよ」
「……ああ」
彼の手が、力なく離れます。
私は踵を返すと、再び歩き出しました。
「……すまない」
背中にぽつりと投げられた言葉に、私は微笑みました。
喧嘩しかしてこなかったけれど、結界に関しては誰よりも信頼していました。彼もそう思ってくれていたのでしょう。
私は聖騎士の一人も付けず、黒翼竜に乗って飛びました。
アルは用事で王都にいました。恐らくもう知らせは届いていて、こちらに戻る途中でしょう。
翼竜で戻ってくるなら、待てない時間ではありません。
それでも私は待ちませんでした。
彼は、きっと止める。
止められたら、私は一瞬だけ迷ってしまう。
だから、彼がいないことに少しだけ安堵しました。
東の戦場では、陣形も何もないような乱戦になっていました。上空からでも、夥しい数の騎士が血を流して倒れているのが見えます。
魔物の咆哮と、血と煙の匂いが風に乗って届きました。
私は手綱をぎゅっと握りました。
──私のせいだ。
いえ、私だけのせいではないことくらい、分かっています。そこまで自惚れていません。
でも、そう思ってしまうのです。
こうなる前に何かできなかったのか、と。
もっと結界構築の方法を改善していたら。
もっと霊獣たちを編成していたら。
もっと、もっと、もっと、何か。
そして。
──境界門自体を叩いていれば。
けれど、今更そんなことを言っても仕方ありません。今できることをやるしかないのです。
私は魔物の襲撃をかわしながら結界の起点へ飛びました。起点は地面に描かれた聖紋です。その真上で黒翼竜の背から飛び降り、杖を起点に打ち込みました。
こちらに気付いた魔物が攻撃してきます。
一瞬、アルの名を呼びそうになり、そんな自分に笑ってしまいました。
……置いてきたのは私だというのに。
いつもならアルがいて、私を守ってくれました。
でも今はひとり。
周りに強固な防御壁を張り、耐えるしかありません。
私はぐっと杖を握りしめました。
膨大な聖力を起点に流し込むと、大地から風が舞い上がり、聖紋が輝きました。
これが最後の結界構築になるでしょう。
五歳からやってきたというのに、ついに下手くそなままでした。
光の粒が煌めき、大地から空を覆うように、結界が構築されていきます。
やがて、体がぎしぎしと軋みはじめました。聖力が強すぎて、人の体では耐えることができないのです。骨が、肉が、音を立てて千切れるようです。口の中が血の味で満ちました。
痛い。
苦しい。
でも私ができることなんて、これくらいしかないのです。
これで死んだらゼライア様に怒られるかなぁ。
「無茶するなって言っただろう!」って。
私は微かに唇を上げました。
でも、ゼライア様に会えるなら、それでいいや。
もう、立っていることもできません。
体が傾き、膝をつきました。
その時、リン、と甲高い音を立てて、結界が完成しました。
私は空を仰ぎました。
そこには青が広がっているはずなのに、もうほとんど何も見えませんでした。
──花火、見たかったなぁ。
去年は神殿を抜け出したのに、アルに捕まったんです。でも最後に上がった花火をひとつだけ一緒に見ることができました。建物の間から見えたそれは、とても美しく、儚いものでした。
帰り道、アルが呟きました。
「綺麗でしたね」
私は彼の背中を叩きました。
「だから言ったじゃないか。来年こそは全部見るぞ」
私は小さく笑いました。
──約束は、叶えられそうにもないな。
あとは結界内の魔物を討てば終わりです。
でもそんな力はもう残っていません。
糸が解けるように、防御壁が崩れていく音がします。
それと同時に、魔物の咆哮が聞こえました。
そして、大地を蹴り、こちらへ飛びかかってくる気配。
私は見えない目をぎゅっとつむりました。
けれど、その時、一つの風切り音がして、むっとするような血の臭気が立ち込めました。
「……遅くなって申し訳ございません」
アルの声でした。
ああ、来てくれた。
そう思ったのに、声にはなりませんでした。
彼は周りの魔物を薙ぎ倒すと、私を抱えて黒翼竜に飛び乗りました。
そして壊れ物を扱うように私を抱きながら、
「お説教は、帰ってからです」
と、呟きました。
その言葉に笑ったはずですが、ちゃんと笑えていたでしょうか。私は温かな腕の中で意識を失いました。
次に意識を取り戻したのは、自分のベッドの上でした。
けれど目も見えず、頭を持ち上げることもできません。
ぼんやりと全身の痛みに耐えていると、ふわりとアルの香りが鼻先をかすめました。
息をのむ気配の後、彼が震える声で叫びました。
「……聖下!!」
握られた手に、温かなものが落ちました。
それは、涙だったのでしょうか。
ありがとう、ごめん、と言いたいのに、声が出ません。
彼は唇に、ほんの少し、水分を含ませてくれました。
そして、そっと頭を撫でてくれました。
私はまた意識を失いました。
何度かそんなことがあり、ベッドに半身を起こせるようになったのは数日後のことでした。
回復したというよりも、最後に一瞬だけ命が燃えた、そんなふうに感じていました。
どこかに秋を含んだ、晩夏の風が窓から入ってきて、頬を撫でました。
そして膝の上ではピエラが丸くなっていて、久しぶりに心地いいと思えました。
通りの音がいつもよりにぎやかに聞こえます。
私はアルに、どんな人たちがいるのか訊ねました。彼は私の目になったように、詳しく教えてくれました。
今日は夏祭りの日だから、着飾った娘が多いこと、こどもたちが暑い中走り回っていること、お爺さんが犬を散歩させていること。そして、手を繋いで歩く恋人同士のこと。
「いいなぁ、私もつがいが欲しい」
声は掠れていましたが、ちゃんと出ました。
「つがいって……霊獣じゃないんですから」
それは気遣う声ではなく、ちゃんと呆れた声でした。
私は嬉しくなって、また口を開きました。
「アルにはいないのか?」
一拍の後、ため息とともに答えが返りました。
「……おりません。残念ながら」
「さみしいやつだなぁ。生まれ変わったら私が……」
はっ、と口をつぐみました。
いったい何を言おうとしたのでしょう。
友人ですらない、ただの部下に。
「……いや、なんでもない」
長い沈黙がありました。
繋がれた手に、ほんの少しだけ力がこもります。
やがて、アルは息を吸い込み、笑ったようでした。
「生まれ変わるなどと……あなたは長生きなさいますよ」
「……そうだな」
それが最後の会話になりました。
夜、遠くから花火の音が聞こえてきました。
私はゆっくりと目を閉じました。
薄れていく意識の中で、果たせなかった約束を思いました。




