幕間1 大聖女リア
孤児院を離れ、神殿に来たのは五歳の時でした。
少し汗ばむような陽気で、私は馬車の窓を開けて外を眺めていました。抜けるような青空の下、新緑が風に揺れていたことをよく覚えています。
私の横に座っていたのは、聖女ゼライア様。
大人の年齢はよくわかりませんでしたが、目尻に皺が寄っていて、真顔でも笑っているようにみえる女性でした。
「神殿には霊獣もいるからね。仲良くしてもらうといい」
私はこくりと頷きました。
霊獣は絵本でしか見たことがありませんでしたので、楽しみでした。
田舎道を抜け、舗装された街中を進むと、やがて白亜の大聖堂が見えてきました。周りには、青空を突くような、多くの尖塔が聳え立っています。私はその威容に、息をのみました。
まだ幼い私は圧倒されるばかりで、どうしてここに連れてこられたのかも分かっていませんでした。
中に入ると、慣れない香油の匂いに顔をしかめました。聖女五人に取り囲まれ、すぐに沐浴させられました。それから金糸の刺繍が施された真っ白なローブに着替えさせられ、手には銀色の細い杖を渡されました。
みんなが私のことをこう呼びました。
「大聖女リア様」
悪い気はしませんでした。
最初は、大人たちが頭を下げてくることに戸惑いましたが、すぐに慣れてしまいました。
お仕事も簡単でした。
結界構築は、理論も術も分からないのに、感覚でできてしまいます。
聖力を使いすぎると体に反動がきましたが、それくらい、孤児院で年上の子たちに意地悪されたことを思えば、なんてことはありません。
「リア、君はもう少し理論を学んだ方がいいよ。君の聖力は無尽蔵だが、人の器には余るものだ。そんな使い方をしていては、体を壊してしまう」
ゼライア様は私を膝に乗せて、髪をとかしながら苦笑しました。鏡越しに見た彼女の目尻には、やっぱり深いしわが寄っていました。
「私は昨日なんて言ったかな? 結界の第一層は、やわらかーい聖力を送った方が効率がいいと言ったこと、もう忘れたのかい? くしゃくしゃの聖力だと、君が疲れてしまうんだよ?」
ゼライア様は、私にも分かるように感覚的に話してくれます。他の人は、やわらかーい聖力と言っても理解してくれないので、自然と彼女が私の師匠役となっていました。
ある日のこと、私は部屋の窓から広場を見下ろしていました。
大勢の親子連れが、手を繋いで神殿へやってきます。
女神の祝福を子どもに授ける年中行事です。
私は特に役目もありませんでしたが、聖堂の二階に巡らされた回廊から、その様子を見ていました。
むずかる赤ん坊をあやす母親、すぐに逃亡しようとする男の子を膝に乗せている父親、お揃いの服を着ている姉妹──。
……いいなぁ。
孤児院で育った私は、両親を知りません。生きているのか死んでいるのかさえ、誰も教えてくれませんでした。
ゼライア様はとても優しいけれど、胸の底にはいつも、何か足りない気持ちがありました。
もし私が大聖女として有名になったら、会いに来てくれるかなぁ。
そんなことを考えながら、毎日の聖務をこなしていました。
十歳になった頃、めずらしい子どもがやってきました。
神官なのに結界構築ができる、天才少年ヴラニミルです。
彼は開口一番こう言いました。
「へったくそな結界」
カチンと来た私は、彼を睨みつけました。
「あぁん? もう一度言ってみろ」
「へったくそな結界」
二秒後。
私たちは、ぽかすかと殴り合っていました。
「僕より神殿歴長いくせに、術もまともに扱えないのか、君は!」
「うるさいよ、とげとげ! 先輩を敬え!」
「大聖女とか言われて、調子に乗ってるんじゃないのかい? へたくそ!」
「むきー!!」
ゼライア様に引き離されるまで、私たちは罵り合っていました。語彙力の差で、完膚なきまでに打ちのめされた私は、その日から理論と術を学び始めました。
「私が言ってもなかなか重たい腰を上げてくれなかったのにねぇ」
教科書をパラパラとめくりながら、ゼライア様は嘆息をもらしました。
「やはり、同年代の子からは刺激を受けるものなんだね。キーラあたりに聞いてみるか」
そして十五歳になった頃。
アルベルトが私付きの聖騎士として配属されました。
その頃には王都や地方に行く機会が増えていたので、護衛として付けられたうちの一人でした。
第一印象は、「若っ!!」でした。
他の聖騎士は引退前のおじさん……というよりおじいさんに近い人が多かったのですが、アルが一人で平均年齢を押し下げていました。
彼は少し緊張した面持ちでしたが、挨拶の口上を完璧にこなし、手を差し出してきました。
「よろしくお願いいたします」
「うん。よろしくな」
すっかりゼライア様の言葉遣いがうつった私は、上から目線で言い放ち、彼の手を握りました。
……なんか、ごつごつしてる。
なんとなく、野生の霊獣に出会ったような気分になりました。背伸びをして腕を伸ばし、ぽんぽんと頭をなでると、彼は目を見開いて後退りしました。
思わず声を立てて笑うと、彼は眉根を寄せたまま、困ったように口先だけで笑いました。
「アルベルトって呼ぶの面倒だし、今日から君はアルだ」
人差し指をぴしっと向けると、彼は一拍の後、渋々といったふうに、手を胸に当てました。
「……承知いたしました」
年も近く、私たちはいつも一緒にいるようになりました。
それが彼の仕事といえばそうなのですが、他の聖騎士よりも、ずっとずっと近くにいました。
よくお説教もされましたが、私には何一つ響いていませんでした。
「聖下。出かけるたびに霊獣を拾われては困ります。収容できる数には限界がございます。それに予算も限られておりますので、無闇に増やすわけにはいきません」
真面目くさった顔で、アルがまたお説教をしてきました。
私の腕の中には赤ちゃん翼竜がいたのです。
赤銀色に輝くとてもきれいな女の子です。
「名前何がいいかな? あっ、ピエラなんてどうだ? 可愛いだろう」
「話、聞いておられます? 神殿ではもう飼えません。聖騎士団の方へ送りましょう」
「いやだ。私にしか懐いていないんだから、持て余すだろう。しかもお前らがつける名前なんて絶対に可愛くないじゃないか」
「……赤雷号、とかですかね」
「だっさ。却下だ。なー、ピエラ」
私が喉をくすぐると、クルクルと音を立てます。
「ほら、ピエラがいいって」
「赤雷号がいいよな?」
アルが指を出すと、かぷりと噛まれてしまいました。
私は声を立てて笑いました。
すると、彼は苦虫を噛み潰したような顔で、吐き捨てました。
「……すでに飼い主に似てますね」
「ありがとう」
「褒めてませんよ」
聖騎士団に送れと言っていた彼も、すぐに情が移ったのでしょう、それから毎日二人で世話をしました。彼はこりずに赤雷号と呼んで、指をかじられていましたけれど。
ゼライア様も、「翼竜の赤ちゃんは初めて見た」と言って可愛がってくれました。
「二人でそうやって世話してると、なんだか若い夫婦みたいだねえ。微笑ましいよ」
その言葉に、私とアルは、はたと目を見合わせました。
「……だ、そうだ。光栄に思え」
笑いながら言うと、彼は肩をすくめました。
ピエラはお母さんを魔物に殺されて、ピーピー鳴いていたところを保護した子でした。
当時、境界門から現れる魔物の数は今とは比べものにならないほど多く、結界の外に棲む霊獣は殺されることも多かったのです。
彼らは聖力が大好きで、私が現地で緊急結界構築をすると、物珍しそうに集まってきました。
「ほら、こっちへ入れ。安全だぞ」
彼らを結界内に誘導していると、アルは目を瞬きました。
「話せるんですか?」
「いや? でもなんとなく分かるだろ? 声に聖力を乗せてるから」
「……分かりません」
「鈍い男だな」
そう言われたアルは、とても心外そうな顔をしていました。
その頃からだったでしょうか。
ゼライア様が床に伏せるようになったのは。
結界を構築できる聖女の数は少なく、大聖女の私にのしかかる負担は増えていきました。
でも、そんなことはどうでもよかったのです。ゼライア様を失う恐怖に比べたら、体の痛みや不調など、ないようなものでした。
「私の看病はいいから、ちゃんと休みなさい。君まで倒れてしまう」
ゼライア様は弱々しく笑いました。
目尻の皺が深くなっていました。
「いやだ」
「相変わらずわがままな子だねぇ」
「あなたがそう育てたんだ」
「……確かにね」
彼女は私の手を取りました。
「君は求められればすぐに力を使うが、頑張りすぎないようにするんだよ? 君が倒れたら、みんな悲しむ」
「……悲しむのはあなたしかいない。だからあなたが死んだら私はもっと無茶をする」
「アルベルトは、きっと悲しむよ」
「あれは仕事だ。私が死んでも配置換えになるだけだ」
ゼライア様は何か言いたそうにしましたが、結局、困ったように笑っただけでした。
私にはゼライア様しかいませんでした。
どれだけ頑張って大聖女として名を馳せても、両親は現れなかったし、神殿内に友と呼べる人もいませんでした。いたのは喧嘩仲間のヴラニミルと、任務で護衛してくれるアルだけ。他の人は恭しく頭を下げるだけで近づいてもきません。
私には、本当に彼女だけだったのです。
「愛してるよ、リア」
「……縁起でもないこと言うな」
そんな会話をした数日後、ゼライア様は静かに息を引き取りました。
涙が止まりませんでした。
お葬式の間も、埋葬する時も、部屋に戻ってからも、ずっとずっと泣いていました。
アルとピエラがそばにいてくれましたが、それに気付いたのは、ずいぶん後になってからでした。アルはお葬式の間中、私が倒れないように肩を抱いてくれていました。ピエラは部屋でずっと寄り添ってくれていました。
それでも、胸にぽっかりと空いた穴は埋まりませんでした。
……いえ、埋める暇も与えられませんでした。
その日の夜も、神官から声がかかりました。
「大聖女様。結界の綻びがございます」
「……わかった」
私はますます身を削るような結界構築をするようになって、聖務が終わるとベッドに倒れ込んでいました。
「聖下」とアルがベッドの脇に腰掛けました。
「結界のことはよく分かりませんが、ゼライア様の教えを守っておられないように見受けられます。いかがでしょうか」
「分からないなら口を挟むな」
「第一層には、やわらかーい聖力を送るんだ、と口酸っぱく仰っておられたでしょう。できてますか?」
やわらかーい聖力。
懐かしいゼライア様の口調に腹が立って、私はアルに枕を投げつけました。
「うるさい! やわらかーい聖力も、とげとげの聖力も、お前らには分からないじゃないか!」
理解してくれたのはゼライア様だけ。
分かってもらえないということが、こんなにもつらいとは思いませんでした。
聖力の形の話をしても、誰もが首を傾げます。
霊獣と話していれば遠巻きに見られ、ひそひそと陰口を叩かれました。
おかしいのはお前らの方だ、と本気で思っていました。
アルは枕を拾いながら、真っ直ぐに私を見ました。
「……分からないから、教えて欲しいんですよ。あなたに見えている世界が、私には見えません」
それでも私はぷいと横を向きました。
どうせ言っても分からない。
だから私は、理解してもらうことを諦めました。
分からない人たちの前に立って、黙って守る方が、ずっと簡単だったのです。
アルは私の頭をそっと撫でて、部屋を出ていきました。
その晩、ふと目覚めると、横に何か温かいものがありました。
部屋は真っ暗でよく分かりませんでしたが、匂いで察しました。
……アルだ。
いつもの彼の香りと、酒の匂い。
そういえば、聖騎士団の祝勝会がどうとか言っていたことを思い出しました。
酔って部屋を間違えたのか、ここで寝たかったのか分かりません。とにかく邪魔だったのでぐいっと押しましたが、びくともしません。体当たりすると、逆に抱きしめられてしまいました。
夏なら、殺意を覚えるところでした。
私はため息を吐きました。
……まぁ、寒いからちょうどいいか。
面倒くさくなって、また目をつむりました。
そうしていると、不思議と安心感を覚えていることに気付きました。寂しくなってゼライア様のベッドに潜り込んだ、五歳の頃を思い出します。
私は彼の胸にぴたりと顔を寄せました。
鼓動の音が伝わってきます。
理解はされなくても、こうして肌から感じるものもあるのだと、初めて知りました。
「きゅるん」
ピエラが鼻先をぐりぐりと押し付けて、私たちの間に潜り込んできました。
私はピエラの頭を撫でました。
「あったかいな、ピエラ」
「キュル」
それでも私は、この温もりに名前をつけることをしませんでした。
ただ、寒い夜にそばにあると安心するもの。
その程度にしか、思っていなかったのです。
翌朝、まるで大罪を犯したかのように青ざめている彼から、何度も何度も謝罪を受けました。
「もう、いいよ。邪魔だったけど温かかったし」
「本当に申し訳ございません」
「酔っ払うなんて誰でもあるし」
「申し訳ございません」
「お前、それしか言わないな」
「申し訳ございません」
いい加減うんざりして、アルを部屋から追い出しました。それでも、後から笑いが込み上げてきました。何が可笑しいのか分からないまま、私はしばらく腹を抱えていました。
ゼライア様を失ってから、声を出して笑ったのは、たぶんそれが初めてでした。




