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第11話 5.黒い少女と

高層ビルの屋上を吹き抜ける風は鋭く冷たい。

少女の黒髪が大きくなびき、ロングスカートの裾をばたつかせた。


眼下には東京の街が広がっている。


無数の高層ビルが空へ向かって立ち並び、その隙間を縫うように幹線道路が走る。遠くでは首都高速を流れる車列が銀色の帯のように連なり、絶え間なく動き続けていた。


耳を澄ませば、遥か下から街の喧騒が微かに届く。


クラクションの音に、工事現場の重機の駆動音。

そして人々の話し声。


それら全てが混ざり合い、

巨大都市だけが持つ低い唸りとなって空気を震わせている。

ビル群の隙間から差し込む午後の日差しが、ガラス張りの外壁に反射する。


眩い光が幾重にも跳ね返り、

街全体が宝石箱のように煌めいて見えた。

視線を遠くへ向ければ、東京湾が陽光を受けて白く輝いている。


さらにその先には、霞んだ地平線と果てしなく続くコンクリートの海。


世界有数の大都市――東京。

その圧倒的な規模と生命力を前にしても少女アヤカは高層ビルの屋上の端から、ただ静かに街を見下ろしていた。


まるで、この街の運命を見定めるかのように。


「……余計なモノ」


アヤカが低く呟く。


その瞳に映る東京は、美しい景色などではなかった。


無数の人間が蠢く巨大な箱庭。

彼女の眼差しには、冷え切った殺意だけが宿っている。


――その時だった。


「……ん?」


アヤカの視線が止まる。


遥か眼下、スカイツリーの足元を流れる川に架かる橋の上。

人の流れの中に、小さな点があった。


女の子だ。


まだ小学校にも上がっていないだろう。

ランドセルより小さなリュックを抱き締め、橋の欄干の傍にしゃがみ込んでいる。


肩は小刻みに震え、泣いている。


アヤカの視力は常人の比ではない。

二キロ以上離れた場所にいるその女の子の表情すら、はっきりと見えていた。


涙でぐしゃぐしゃになった顔。

何度も辺りを見回しては、誰かを探すような仕草。


けれど、女の子の周囲に親の姿はない。


誰もいない。

橋の上には大勢の人間が行き交っている。

会社員に観光客、買い物帰りの親子。誰もが忙しそうに足を動かし、女の子のすぐ横を通り過ぎていく。


ちらりと視線を向ける者はいた。

だが、それだけだ。


声を掛ける者はいない、立ち止まる者もいない。


まるで見えていないかのように。

人の波だけが、絶え間なく少女を避けて流れていく。


アヤカは黙って見下ろしていた。


一分。

二分。

三分。


時間だけが過ぎてき、それでも誰も足を止めない。

少女はずっと独りだった。


「……」


アヤカの目が僅かに細められる。


その瞬間。

脳裏の奥底に沈んでいた記憶が、不意に浮かび上がった。


冷たい雨に、濡れたアスファルト。

黒く焼けた景色。助けを求めても、誰もいない。


胸の奥に突き刺さったままの痛みが、鮮やかに蘇る。


「……まただ」


感情の消えた声が漏れ、瞳から光が失われた。


眼下では、女の子が今も泣いている。

誰にも気づかれず、誰にも助けられず。


ただ独りで。



――私には友達がいる! 信頼できる、友達が!



「……」


不意に脳裏へ声が響いた。


沖縄にて、影喰の腹の中で交わされた言葉。

傷だらけになりながらも真っ直ぐ前を向いていた少女――アイアンガール、桐灰華。

その時の表情が、鮮明に蘇る。


『信頼できる友達がいる』


当たり前のように言ったその言葉。

まるで、それが世界の常識であるかのように。


「……ヒーロー…」


アヤカの眉がわずかに動く。


次の瞬間、蘇ったのは別の記憶だった。


暗い教室に冷たい床。

髪を掴まれる感覚と、頬を打たれる衝撃。


飛び交う嘲笑と罵声、引き裂かれる制服。見て見ぬふりをするクラスメイトたち。


助けを求めても、誰も手を伸ばさなかった。

誰も。

誰も…。

一人として。


「……くだらない」


吐き捨てるように呟く。

だが声には、僅かな揺らぎが混じっていた。


華の言葉と、自分の記憶。

まるで相容れない二つの世界が、胸の奥でぶつかり合う。


「…」


アヤカは無意識に拳を握り締める。


白くなるほど強く。

眼下では、少女が今も泣いている。


その姿に、かつて独りで泣いていた自分の影が重なって見えた。


誰にも気づかれず。

誰にも助けられず。


ただ救いを待っていた、あの日の自分が。



「……化身武装アバターコネクト


呟きと同時に、アヤカの身体が漆黒の粒子へと分解される。

黒い粒子は瞬く間に球状へ収束。


次の瞬間――弾けた。


ドォンッ!

轟音とともに黒い閃光が屋上を蹴る。

アヤカが立っていた場所は深く陥没し、コンクリート片が宙へ舞い上がった。


黒い閃光はビル群の間を駆け抜け、

空中で直角に軌道を変えながら加速。

人の目では追うことすらできない、ただ一筋の黒い残光だけが空に刻まれていく。


そして――橋の上。

泣き続けていた女の子の傍を、黒い風が通り過ぎた。


「ふえ……?」


女の子が驚いて顔を上げる。


その瞬間。ふわり、と身体が浮いた。


景色が遠ざかっていく。


橋や、道路。行き交う人々。

すべてがみるみる小さくなっていった。


女の子が次に目を開けた時、彼女は空の上にいた。


「……?」


視界の下に、

白く細い腕が自分の身体を支えていることに気づく。

恐る恐る顔を上げると、すぐ傍に見知らぬ少女の横顔があった。


頭上には三つの鋭い突起を持つ黒い王冠。

腰まで届く漆黒のツインテールが風に揺れている。

身に纏うのは深い蒼と黒を基調としたドレス。腰に結ばれた赤いリボンだけが鮮やかに風を切り、まるで尾のようにたなびいていた。


少女――アヤカは何も言わない。

ただ前だけを見据えながら、空を駆けている。


「……ほえ?」


幼い女の子は状況が飲み込めず、きょとんと目を瞬かせた。

目尻にはまだ涙が残っている。


つい数秒前まで泣いていたことさえ忘れてしまうほど、目の前で起きている出来事は現実離れしていた。


「……どこに行きたい?」


風の音に紛れるような小さな声で、アヤカが尋ねる。

女の子は不思議そうな顔でアヤカを見上げた。何を聞かれたのか理解するまで、少し時間がかかる。


やがて唇が小さく震えた。


「……パパと、ママのとこ」


か細い声だった。

迷子になっていた不安を思い出したのか、女の子の瞳が再び潤み始める。

その様子を見たアヤカは、ほんのわずかに目を伏せた。


「……わかった」


短く答える。


それだけだった。


けれど少女を抱く腕は、

落とさないようにほんの少しだけ強くなっていた。





****************************





気がつけば、東京の空は茜色に染まっていた。


沈みかけた夕陽が街を赤く照らし、

高層ビルの窓ガラスが炎のような輝きを返している。

その空を横切っていた黒い閃光は、やがて都心から少し離れた住宅街へと降下。


舞い降りた先は、小さな墓地だった。


周囲を囲むコンクリート塀は長い年月を感じさせるほど色褪せ、ところどころに亀裂が走っている。入口付近では割れた隙間から雑草が伸び、誰にも気に留められないまま風に揺れていた。


古びた鉄門は赤茶けた錆に覆われ、

その向こうには整然と並ぶ墓石が夕陽を受けて静かに影を落としている。

都会の喧騒から切り離されたような場所だった。


「……」


アヤカは抱えていた女の子を静かに地面へ降ろした。


足が着くや否や、少女は駆け出す。

小さな靴が砂利を蹴り上げ、古びた門をくぐって墓地の奥へと走っていく。

アヤカは何も言わず、その後を追った。


夕陽に照らされた墓石の間を抜ける。


やがて女の子は、一番奥にある大きな墓の前で立ち止まった。


そして――。

ぎゅっと墓石にしがみつく。

まるで、大切なものを離すまいとするかのように。


「……パパぁ……ママぁ……」


か細い声が漏れた。


その瞬間、アヤカは足を止める。


茜色の光に照らされた墓石、そこには二人分の名前が刻まれていた。

その前で泣きじゃくる、小さな背中。


アヤカは黙ってその光景を見つめていた。



そして――その瞳が、わずかに揺れる。



「……こんにちは」


不意に背後から声が掛かった。


アヤカが振り向くと、

そこには一人の男性が立っている。


手にはスーパーの買い物袋。

日に焼けた坊主頭に白いポロシャツ、黒のパンツという気取らない服装だ。

細く閉じた糸目と穏やかな表情が印象的だった。


男性は墓の前で泣いている女の子に目を向ける。


「あの子の知り合いかい?」

「……いや」


アヤカは短く答えた。

男性は「ああ、そうか」と小さく頷く。


「また来たんだね、あの子」


その口ぶりに、アヤカは視線を向けた。


「……また?」

「うん」


男性は女の子を見つめながら静かに続ける。


「ご両親が亡くなってから、時々こうして来るんだ」


吹き抜ける夕風が二人の間を通り過ぎた。


「今は親戚の家で暮らしているらしいが、聞く限り環境も良くないと聞く」


男性は少しだけ困ったように笑う。


「だから会いたくなるんだろうな」

「……そう」


アヤカは小さく呟いた。

視線の先では、女の子が今も墓石にしがみついていた。



まるで、もう一度だけでも両親に会いたいと願うように。



「話だけ進めてしまってすまないね。ワタシはこの寺の住職だ」


男性は穏やかな笑みを浮かべ、軽く会釈する。


「あの子とはどういう関係なんだい?」

「……さっき会った」


アヤカは短く答えた。


「名前も知らない」


住職が一瞬だけ目を丸くする。

それから、どこか面白そうに目を細めた。


「それはまた、不思議な関係だね」

「……あたしにも、よくわからない」


住職は小さく笑った。

アヤカは女の子の背中を見つめる。


墓石にしがみついたまま、女の子はまだ泣いていた。


夕陽に照らされた小さな背中。

なぜだか、目が離せなかった。


「お嬢さんも」


住職が言う。


「苦労してきたんだろうね」

「……え?」


アヤカは少しだけ振り向いた。


「長く生きているとね。なんとなく分かるものさ」


住職は空を見上げる。


「目を見れば」

「……」


アヤカは答えなかった。

代わりに視線を空へ向ける。


茜色に染まった空を、一羽の鳥が横切っていく。


羽を広げ、何にも縛られず、ただ風に乗るように。

やがて高層ビルの向こうへ消え、沈みかけた夕陽がビルの隙間から差し込む。


眩しさに、アヤカは目を細めた。


脳裏を過ぎる。

掴まれた髪、頬を打つ拳、雨に濡れた帰り道。

玄関を開けても待っていたのは、冷え切った空気だけだった。


「……」


アヤカは目を開く。

女の子は、はまだ泣いていた、墓石にしがみついたまま。


「縋っても」


ぽつりと呟く。


「救われない」



夕風が吹く。

少女の泣き声だけが聞こえていた。


「あの子のこと、頼めるか」


住職が目を瞬く。


「え? ああ、いいけど……」

「じゃあ、頼む」


アヤカは踵を返した。


「待ちなさい」


住職の声が背中に掛かる。


「君は――どこへ行くんだい?」


アヤカは立ち止まらない。

ダークブルーのドレスのスカートを翻しながら、墓地の出口へ向かって歩き続ける。


「別に」


短く答え。

それだけ言う。


帰る場所があるのか。


そんなことは、自分でもよくわからなかった。




****************************

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