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第9話 4.雨の中で

「あえ?」


華の頭に、

ぽつり、と何かが落ちた。


時刻は午後九時過ぎ。

青崎市・海岸通り。

車通りはほとんどなく、静かな波音だけが夜の海に響いている。オレンジ色の街灯が、濡れたアスファルトをぼんやり照らしていた。


「うわぁ! 雨かなぁ!?」


Tシャツに短パン姿の華は、ランニングの途中で空を見上げる。


「降るって言ってなかったのにー!」


頬へ落ちる雨粒に、華は慌てたように声を上げた。

数分もしないうちに、ぽつぽつだった雨は一気に強くなっていく。


ザーッ――。

激しく降り始めた雨が、海岸通りを白く煙らせた。


「きたー!? やばいやばい!」


華は走るペースを上げようとして――。


ふと、海岸沿いの広場へ視線を向ける。


そこには、二体の人魚像が並ぶ小さな広場があった。

その奥の海へ突き出した岸壁の先端に、一人の人影が立っている。


「……人?」


華は足を止め、目を細める。

雨に霞んで、顔までは見えないがシルエットで女性だと直ぐにわかった。


だが、次の瞬間。

その人物が、静かに靴を脱ぎ始めた。


「……え?」


華は目を細める。


雨で霞む岸壁の先。

女性は、そのまま海へ背を向けるように立ち尽くしていた。


動かない。

まるで、何かを決意しているように。


「――っ!」


華の表情が変わる。


立ち止まっている暇はない。

華は雨に打たれながら一気に駆け出し、海沿いの柵を軽々と飛び越えた。


「早まっちゃダメーーー!!」


夜の海へ、大声が響く。

突然の叫び声に、女性が驚いたように振り向いた。


そして。


「えっ――」

「わーーー!!」


ゴツンッ!!

互いの顔面が、真正面から激突した。


「いったぁーー!?」

「きゃあっ!?」


勢いのまま、二人はバランスを崩す。


そのまま。


ザバァンッ!!

揃って海へ落下した。


「ぶはっ!!」


盛大な水しぶきが上がる。

だが。


「……あれ?」


華が目をぱちくりさせる。

海面までの高さは、一メートルもなかった。


しかも浅い。


腰下あたりまでしか水深がない。

女性も呆然としたまま、濡れた髪を顔へ張りつかせていた。


雨と海水で、二人ともびしょ濡れだった。


「……」

「……」


数秒の沈黙。

やがて。


「ご、ごめんなさいーーー!!」


華の絶叫が、夜の海岸へ響き渡った。


雨は相変わらず激しく降っている。

浅瀬に正座したまま、華は必死に頭を下げていた。


「ほんとごめんなさい! 飛び込むのかと思ってぇ……!」


ふと、華の動きが止まる。


「……あれ?」


改めて、目の前の女性の顔を見る。


濡れた黒髪。

びしょ濡れのスーツ。どこか見覚えのある顔立ち。


数秒考え――。


「あっ!」


華がぱっと顔を上げた。


「ブチギレ先生!」

「……え?」


女性――山上未来は、ぽかんと目を瞬かせる。





****************************





「……最近学校に出る妖怪の調査で?」


雨音に混じるように、未来がたずねる。


その後。

なんとか海から上がった二人は、近くの店の軒下へ避難していた。


九月とはいえ、夜の気温はまだ高い。

びしょ濡れになった服も、会話を交わすうちに少しずつ乾き始めている。

屋根を叩く雨音だけが、静かな海岸通りへ響いていた。


「そうそう!」


華は元気よく頷く。


「校長先生に頼まれて学校を調査してたの! それで廊下から覗き見してた!」

「うわぁー……」


未来は片手で顔を覆う。


「よりによって、そこ見られてたんだ……」


肩が、がっくり落ちた。


「すごかったよね!」


華は目を輝かせる。


「“褒めろォ!!”って!」

「忘れて、お願い……」


未来は、

その場にしゃがみ込みたくなった。


「なんであんなところにいたの?」


華が首をかしげながら尋ねる。

未来は、雨と海水で濡れて垂れ下がった前髪を指で整えながら視線をそらした。


「……なんていうか」


言葉が続かない。

胸の中では、今もいろんな感情が渦巻いている。


ちゃんと言葉にしようと思えば、できなくはない。


けれど目の前にいるのは、

ついさっき出会ったばかりの少女だ。

そんな相手に自分の中に溜め込んでいた重たい感情を打ち明けることへ、


未来は強い抵抗を感じていた。


「……」


どう説明すればいいのか、わからない。

すると。


「失恋?」


華が、あっさりと言った。


「…………え?」


未来の思考が止まる。


口に溜め込んでいた言葉が、一瞬で吹き飛んだ。

ぽかん、と口が開く。


「……なんで?」


やっと絞り出せたのは、そんな問いだった。


「うーん……」


華は少し考えるように首を傾げる。


そして。


「悲しそうな顔、してたから!」


にかっと笑った。


その瞬間。

未来の中で、何かがふっと緩む。

張りつめていた瞼の力が抜け、じわりと目頭が熱くなった。


「……っ」


鼻をすする音が漏れる。


寒いわけじゃない。


なのに。


気づけば、頬を温かい雫が伝っていた。

雨水に混じりながら、涙が静かに流れ落ちていく。


「えっ!? わわっ! ご、ごめんね!?」


突然泣き出した未来を見て、華は慌てふためく。


「わ、私なんか変なこと言った!?」

「ち、違っ……」


未来は慌てて首を横に振る。

一度溢れ始めた涙は、簡単には止まらなかった。


「違うの……ただ……」


声が震える。

雨音は、やけに大きく聞こえた。

未来は濡れた前髪を押さえながら、小さく笑おうとする。


その笑みは、ひどく弱々しかった。


「好きな人が……遠くに行っちゃうの」

「遠く?」


華が目をぱちくりさせる。


「アメリカ」

「おぉー!」


思わず感嘆の声を漏らしたあと、華はハッとした。


「いや今そういう空気じゃなかった!」

「ふふっ……」


未来の口から、小さな笑いがこぼれる。

それだけで、重かった空気が少しだけ和らいだ。


「夢だったんだって。向こうで勉強するの」


未来はぽつりぽつりと話し始める。


「ずっと憧れてたみたいで……すごく嬉しそうで……」


その顔を思い出した瞬間、胸がまた苦しくなる。


「応援しなきゃって思うのに」


言葉が詰まる。


「なんで先に言ってくれなかったの、とか言いたいことはあるけど……やっぱり、行かないでって思っちゃう」


ぽたり、と。

また涙が落ちた。


華は静かに未来を見ていた。

両膝を抱えしゃがみながら、隣で彼女の話を聞いている。


「わたしね」


未来は、濡れた地面を見つめたまま続ける。


「先生になってから、ずっと余裕なくて」

「うん」

「怒られて、失敗して、生徒にも舐められて……毎日必死で」

「うんうん」

「そんな時、ずっと支えてくれた人なの」


未来は、そっと唇を噛んだ。


「気づいたら……好きになってた」


ぽつり、と漏れる声。


「でも……」


言葉が震える。


「好きになることが、こんなにつらいなら……最初から好きにならなきゃよかった……」


雨は、まだ降り続いていた。

先ほどよりも激しく。


まるで、未来の心を映しているみたいに。


「じゃあさ」


しばらく黙っていた華が、ゆっくり口を開く。


「好きって言えばいいんじゃない?」

「……嫌なんだよね」


未来の声は弱かった。


「気持ちを伝えて……関係が終わるのが怖いの」


静かに顔を上げる。

夜空は厚い雨雲に覆われ、星一つ見えない。


「うまくいくかもしれない。でも……もし終わっちゃったら」


未来は小さく笑った。


「そのあと、どうしたらいいかわからない」


沈黙。

雨音だけが、二人の間を埋めていく。


やがて。


「そんなの、わかんないよ」


華の言葉に未来は、ゆっくり顔を上げる。

困ったように笑いながら、華はぽりぽりと頭をかいていた。


「私は“事情”があって、今は恋愛と縁遠い人生なんだけどさ」


どこか、自嘲するような笑み。


「でも――」


華は少しだけ視線を落とした。


「言えなかった後悔が、辛いことは知ってるんだ」


雨音だけが響く。


言葉には、妙な重みがあった。

華はそのまま立ち上がると、背中で手を組みながら夜空を見上げる。


「まだ始まってもないのに」


ぽつり、と。


「起きてもいない未来に怯えるのって、勿体ないよ」


未来は、目を見開いたまま華を見つめていた。

雨に濡れた街灯の光が、華の横顔をぼんやり照らしている。


「伝えてこ。大事なこと!」


華は、にかっと笑った。

まるで、雨雲なんて吹き飛ばしてしまいそうなくらいの笑顔だった。


「……」


未来は何も言えない。

僅かに、胸の奥に溜まっていた重たい何かが、少しだけ軽くなった気がした。


怖い気持ちは、まだ消えていない。


振られるかもしれない。

関係が変わってしまうかもしれない。


でも。



“伝えないまま終わる未来”を想像した時。それはきっと、今よりもっと苦しいのだと思った。



未来は、そっと胸元を握る。

心臓は、相変わらずうるさいくらい鳴っていた。


「……ありがと」


小さく漏れた声は、少しだけ力強かった。


「うん!」


華は、いつものように屈託なく笑った。

その笑顔に、僅かだが未来に口元の緊張が緩んでいく。


不思議と勇気が湧いてくる。


雨はまだ降っていた。

先ほどまで冷たく感じていた雨音は、どこか優しく耳に届く。

ゆっくりと夜空を見上げる空は厚い雲に覆われ、まだ星は見えない。


それでも。

止まない雨がないことを、


彼女は知っていた。





****************************



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