第9話 3.この思いは
「まさか冷が幽霊ダメだったなんて、意外だねー!」
校長室で話を聞き終えた華達は、校舎内の廊下を歩いていた。
麦とキャロライナは、途中にある実習室や掲示物を興味深そうに眺めている。
だが。
冷だけは違った。
華の腕へ、がっちりとしがみつき腰が引けている。
表情は、露骨なほど怯えていた。
「昼間だから幽霊も出てこないよー!」
「よっぽど怖がりなのね。ここまで取り乱してる冷ちゃん、初めて見たかも」
「ジャパニーズ幽霊、興味あるヨ!」
ルンルン気分のキャロライナとは対照的に、冷の顔色は悪い。
「この廊下とか、幽霊が通ったかもしれないんだよ!?」
冷は涙目のまま周囲を指差す。
「あそこの突き当たりだって! “誰もいないはずなのに立ってる”とかあるかもしれないし! 保健室とか絶対ヤバいし!」
「えぇ……そこまで想像してるの……?」
麦は若干引き気味だった。
「こんなことなら家にいればよかったぁ……」
ぐす、と鼻をすする冷。
そんな彼女へ、華はにこっと笑いかける。
「大丈夫! 私がいる!」
「……」
冷は口をへの字に曲げ、どこか拗ねたような顔で華を見る。
「あれ? いつもと反応違うね?」
「「え……?」」
華の何気ない一言に、麦とキャロライナが同時に反応した。
興味津々、といった視線が冷へ集中する。
「っ!?」
冷はギョッと目を見開いた。
そして何事もなかったかのように、すっと顔を逸らす。
「……気のせいでしょ」
妙に冷静ぶった声だった。
そのまま華達は校舎内を進んでいく。
渡り廊下を抜け、やがて教室棟へ辿り着いた。階へ上がると、静かな授業風景が広がっている。
教壇で話す教師。
ノートを取る生徒達。
中には廊下を歩く華達へ気づき、不思議そうに振り返る者もいた。
そんな中。
少し先の教室からだけ、やけに騒がしい声が聞こえてくる。
「……あそこだけ賑やかね」
最初に麦が気づいた。
「校長先生の話だと、あのクラスはやんちゃな生徒が多いらしいよ」
華の腕へしがみついたまま、冷が続ける。
「あんまり関わらない方が――」
「おぉー! 皆自由だ!」
話の途中。
華はしゃがみ込み、引き戸の隙間から教室内を覗き込んでいた。
「ちょ、ダメだって! 授業の邪魔に――」
「へぇー、懐かしいわねぇ。高校の頃思い出すわ」
「麦!?」
いつの間にか、麦まで華の後ろへぴったり張り付いている。
さらに。
「オー、気になるネ!」
キャロライナまで小走りで加わった。
三人は団子三兄弟のように、縦一列で顔を並べながら教室を覗き込んでいる。
「……」
冷は呆れたようにため息をついた。
だが。
「……ま、調査だし」
小さく言い訳すると。
結局、
冷も三人の後ろへそっと並び、
同じように教室を覗き込むのだった。
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どこの高校にも、素行の悪い生徒というものは存在する。
授業を抜け出す者、教師へ反抗する者。
校則を破ることを“かっこいい”と勘違いしている者。
一人なら、まだいい。
だが複数人で群れ始めた時、空気は変わる。
子供だからといって、無力とは限らない。
時にその集団は、大人すら萎縮させる。
学校という閉ざされた世界の中では、力関係は必ずしも年齢順ではないからだ。
まして現代は、教師側が簡単に強く出られる時代でもない。
少し強く叱れば、“言い方がきつい”と問題になる。
厳しく指導すれば、動画を撮られSNSへ上げられる可能性もある。
世間の目や保護者からのクレーム。様々な不利な要因が積み重なり、いつしか教師たちは牙を折られていた。
だからこそ、一部の生徒達は理解している。
自分達は、簡単には切り捨てられない存在だということを。
それが無意識の“強気”となり、時には教師すら呑み込む空気を作り出していく。
学校とは教育の場であると同時に。
未熟な感情と力関係が渦巻く、小さな社会でもある。
そして―二年A組もまた。
その象徴のような教室だった。
「はー、かったりぃー。早く終われよこの時間」
前列に座る男子生徒が、
机へ足を投げ出しながら大声を上げる。
学ランの前は全開。
金髪に剃り込みを入れ、眉毛はない。
教師が教壇へ立っているにも関わらず、ガムをくちゃくちゃと噛み続けていた。
「おい、さっさと始めろよ!」
別の男子生徒が椅子をガタガタ揺らしながら笑う。
「オメー、あのジジィの代わりに来た先生なんだろー?」
「あー、あの前の担任な」
「つーか赤点つけたら服脱がして晒すからな? ババァ!」
後方から飛んできた下品なヤジに、教室中がどっと笑い声に包まれる。
誰も止めない。
むしろ、それが“当たり前”の空気になっていた。
机の上にあるのは、教科書ではない。
菓子、ゲーム機、トランプ、イヤホン。
生徒達は授業中にも関わらず、思い思いに騒いでいる。
黒板を見ている者は、ほとんどいない。
教壇へ立つ教師など、最初から“授業の相手”として見ていないのだ。
そして何より厄介なのは。
彼ら自身が、この空気に慣れ切っていることだった。
「さっきから黙ってねーで、なんか喋れよ。ババァ」
前列の男子生徒が、机へ頬杖をつきながら笑う。
その瞬間だった。
教壇に立っていた女性教員が、無言で歩き出す。
ズカズカと近づき。
男子生徒の席の前で足を止めた。
「……あ?」
パァンッ!!
乾いた音が教室へ響き渡る。
男子生徒の顔が横へ弾けた。
教室中の生徒達が、一斉に動きを止める。
「……は?」
静まり返る教室。
女性教員は、腰へ手を当てながら男子生徒を睨み下ろした。
「さっきから聞いてりゃ、青臭ぇことベラベラベラベラ喋ってんじゃねぇぞオラァ!!」
ドスの効いた怒声。
「どの面下げて“ババァ”連呼してんだコラ!」
「いや、そんな連呼は――」
「してたろうが!! 嘘つくんじゃねぇ!!」
女性教員は、机へ積まれていた漫画雑誌を掴み取る。
そのまま。
バシッ! バシッ!男子生徒の頭を二回叩いた。
「いってぇ!?」
さらに。
女性教員の鋭い視線が、後方の席へ向く。
「おい、そこのバカ後ろ組!!」
「え、オレら!?」
「他に誰がいんだよ!!」
女性教員は胸を張る。
「こちとら大学時代、ミスコン四年連続一位だぞオォン!! 文句あっか!!」
「い、いや……それは普通にすごいっす……」
「お前は黙ってろ。昨日後輩にフラれたこと全員にバラすぞ」
「なんで先生が知ってんだよ!?!?」
教室がざわつく。
完全に、教師側のペースへ飲まれていた。
「いいかお前ら!!」
山上未来は、教壇をバンッと叩いた。
「まずは“相手を思いやる気持ち”を持て!!」
熱弁するように、身振り手振りを交えて語る。
「手っ取り早く、先生を褒めてみろ!!」
「「は?」」
クラス全体の空気が、見事に固まった。
「返事はどうしたァーーーッ!!!」
未来の怒号が飛ぶ。
「お前らの口は飾りか!!」
「あ、あの……」
先ほどまで威勢の良かった前列の男子生徒が、すでに押され気味に手を挙げる。
「今日会ったばっかで……名前とか知らねぇし……」
「山上未来先生だァ!! 覚えたか!!」
覇気のある声が教室へ響く。
「「は、はい!!」」
反射的に、クラス全員の返事が重なった。
「よぉーーし!!」
未来は満足げに腕を組む。
「じゃあ褒めろ!!」
教室が静まり返る。
「…………」
「…………」
未来のこめかみに青筋が浮かぶ。
「……早く褒めろォ!!!!」
ビクゥッ!!
クラス全員の肩が跳ねた。
「え、えっと……」
最前列の男子生徒が、恐る恐る口を開く。
「せ、先生……元気っすね……?」
「声が小さい!!!」
「先生元気っす!!」
「よぉし!! 他は!?」
未来が教室全体を見回す。
完全に面接会場だった。
「……ミスコン一位、すごいです」
後方の女子生徒が、引きつった顔で呟く。
「そうだろう!!」
未来はドヤ顔で胸を張った。
「他には!?」
「えっと……」
別の男子生徒が、周囲を見ながら絞り出す。
「……顔、綺麗?」
「疑問形にするなァ!!」
バンッ!!
未来が机を叩く。
「自信持って褒めろ!!」
「顔綺麗っす!!」
「もっと!!!」
「美人です!!」
「もっとだァ!!!」
「超美人です!!!」
「よぉーーーーーーーーーし!!!」
未来は満足そうにガッツポーズを取った。
教室中が、完全に意味の分からない空気になっている。
だが。
先ほどまで騒いでいた生徒達は、いつの間にか全員、未来の言葉へ反応していた。
ゲームをしていた手も止まりトランプも、机へ放置されたままだ。
そして何より。
教室から、さっきまでの“嫌な空気”が消えていた。
「……」
そして教室後方。
引き戸の隙間から覗いていた冷が、ぽつりと呟く。
「……なんか、すごい先生だね」
「圧で全部持ってったネ」
キャロライナが感心したように目を丸くする。
「映画だけかと思ってた。こんな先生、本当にいるのね」
麦は驚いた様子だった。
一方。
「すごい!! あの先生めちゃくちゃ面白い!!」
華だけは目を輝かせていた。
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その日の夜。
午後七時五十分。
青崎駅ロータリー広場。
車通りは少なくなり、行き交う人の姿もまばらになり始めていた。日中ほどではないが、夜になっても空気にはまだ夏の熱が残っている。
そんな中。
駅前の時計台の近くで、一人の女性が落ち着かない様子で立っていた。
山上未来。
白いバッグからスマートフォンを取り出しては時間を確認し、
また周囲を見回す。
それを、もう何度繰り返しただろう。
本人も、少しそわそわしすぎている自覚はあった。
「ごめんごめん! お待たせ!」
不意に、視界の外から明るい声が飛んでくる。
未来は振り向く。
そこには。
スーツ姿の男性――新井田誠が、小走りでこちらへ向かってきていた。
「ちょっと時間過ぎちゃったかな」
「ううん、大丈夫」
未来は柔らかく微笑む。
「わたしも今来たところだから」
本当は、十分ほど前には着いていた。
けれど。
新井田が数分遅れて来る癖があることも、未来はもう知っている。
だから、不思議と嫌ではなかった。
「悪い悪い」
申し訳なさそうに頭をかく新井田。
その仕草を見ているだけで、未来の胸の奥が少しだけ温かくなる。
自然と、口元が綻んでいた。
「最近できたカフェがあるんだ」
未来が切り出す。
「あぁ、トリーズカフェだっけ?」
新井田が目を輝かせた。
「実は俺、あそこ好きなんだよね」
「えっ、ほんと?」
未来の表情が明るくなる。
「奇遇。わたしも好き」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
そして並んで、駅前ロータリーを歩き出す。
夜空の下。
オレンジ色の街灯を潜りながら、
二人は駅から少し離れた場所にあるカフェへ向かっていった。
「へー!駅から近いんだね!」
恐らく3分のかかっていない位置にあったのは、オレンジのレンガ調の外壁を持つ店だった。大きな窓ガラスにはコーヒーカップの絵が施され、二人は店の外観を眺めながらドアを開け中に入る。
カランカラン――。
ドアベルの軽やかな音が店内へ響く。
中へ入った瞬間、ふわりとコーヒー豆の香ばしい香りが鼻をくすぐった。
店内は黒を基調とした落ち着いた内装になっている。
木目調の床。
深いブラウンのテーブル。
天井から吊るされた暖色のペンダントライト。
間接照明の柔らかな光が、店全体を静かに照らしていた。
窓際には二人掛けの席が並び、
外を走る車のライトがガラス越しにゆっくり流れていく。
カウンター席は全部で九席。
奥では、白シャツに黒いエプロンを着た店員が、
静かにコーヒーを淹れていた。
シュゥゥ……というスチーム音。
カップ同士が触れ合う小さな音。
それらが、店内に流れるジャズピアノと自然に溶け合っている。
客層も比較的落ち着いていた。
ノートパソコンを開く会社員。
小声で会話するカップル。
一人で本を読む女性。
誰も大きな声を出さない。
まるで、“静かな時間を楽しむための場所”
そのものだった。
「わぁ……」
未来は思わず小さく声を漏らした。
学校の喧騒とはまるで違う。
そこには、時間がゆっくり流れているような空気があった。
二人は窓際の席へ腰を下ろす。ガラス越しには、夜の街を行き交う車のライトが流れていた。
未来はメニュー表を開き、ちらりと新井田の様子を見る。
真剣そうに悩んでいる横顔。
その姿が、なんだか少しだけ新鮮に見えた。
「決まった?」
「うーん…甘いのも気になるんだよなぁ」
「わかるっ、ここのケーキ美味しいらしいよ?」
そんな何気ない会話を交わしながら、二人は注文を済ませる。
店員が去ると。
ふっと、小さな静寂が二人の間へ落ちた。
気まずいわけではない。
むしろ不思議と居心地の良い沈黙だった。
未来はそっと、テーブルへ置かれた水のグラスへ手を伸ばす。
氷が小さく音を立てた。
「今日、さっそく怒鳴ってただろ?」
新井田が、コーヒーカップを持ちながら笑う。
「まぁね」
未来はストローをくるくる回した。
「ああいう悪そうな生徒には、ガツンとぶつかれ!……って教えてくれたの、新井田先生じゃん」
「はっはっは!」
新井田が楽しそうに笑う。
「ちゃんと教えを守ってるな! 師匠として感心しているぞ!」
「なにそれっ」
未来は吹き出した。
「ちょっと上から目線!」
「ははは!」
「へんなのっ」
そう言って笑う未来の表情は、学校で見せるものよりずっと柔らかい。
やがて注文したドリンクと料理が運ばれてくる。
湯気の立つパスタ。
甘い香りのパンケーキ。
二人は食べながら、ぽつぽつと会話を続けていく。
学校の話、生徒の話。
休日の過ごし方、好きな食べ物。
気づけば、どちらの口も止まらなくなっていた。
他愛もない会話なのに。
不思議なくらい、楽しかった。
「懐かしいなー……」
新井田が、コーヒーカップを片手に笑う。
「落ち込んでる君に話しかけてから、もう一年半か。今じゃ立派な鬼教師だもんな」
「鬼教師ってなによ」
未来は苦笑する。
「でも……周りの先生達や保護者の人達にも支えてもらったし」
少しだけ照れくさそうに視線を落とした。
「……新井田先生の影響が、一番大きいかな」
「ははっ、マジ?」
新井田は笑う。
だが。
その笑顔は、少しだけいつもと違う気がした。
「……?」
未来が首を傾げる。
新井田は、手の中のコーヒーカップをぼんやり見つめていた。
まるで。
何かを切り出すタイミングを探しているように。
そして。
「……これで俺も、心置きなく行けるってもんだ」
ぽつりと、独り言のように呟く。
「……え?」
未来の動きが止まった。
新井田は苦笑する。
「俺さ。来週からアメリカ行くんだ」
一瞬。
未来の思考が止まる。
「え……?」
「スポーツ教育の研修制度っていうかさ」
新井田は視線を窓の外へ向けた。
「向こうの大学で、指導方法とか育成理論とか学べるらしくて」
少しだけ照れくさそうに笑う。
「ずっと昔からの憧れてたんだよね。アメリカの育成環境」
未来は言葉を失った。
それが。
新井田にとって、どれほど大きな夢なのか。
彼を見ていれば、痛いほどわかってしまったからだ。
未来は、手にしていたグラスをそっと置いた。
氷が、小さく音を立てる。
「……すごい、ね」
やっと絞り出せた言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「新井田先生らしいよ」
未来は無理やり笑みを作る。
「夢だったんでしょ? アメリカ」
「まぁね」
新井田は頭をかく。
「いつか絶対見てみたいって思ってたんだ」
その目は、生徒へ夢を語る時と同じだった。
真っ直ぐで、眩しくて。
だからこそ。
未来は、「行かないで」と言えなかった。
「期間は……どれくらいなんですか?」
「とりあえず二年」
「……二年」
想像より長い。
その事実が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
店内には変わらず、穏やかなジャズが流れていた。
周囲の客達も、楽しそうに会話を続けている。
なのに。
未来だけが、別の世界へ取り残されたような感覚だった。
「でも安心したよ」
不意に、新井田が笑う。
「最初はほんと危なっかしかったからなー。山上先生」
「なっ……!」
未来が顔を上げる。
「職員室で毎日顔死んでたし。生徒に怒鳴られて半泣きだったし」
「うぅ……」
「でも今は違う」
新井田の声は、とても優しかった。
「ちゃんと、生徒と向き合えてる」
未来は、言葉を返せなかった。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
ずっと。
認めてほしかったのかもしれない。
この人に。
「……だから」
新井田は、少し照れくさそうに笑った。
「俺がいなくても、もう大丈夫だろ?」
その瞬間。
未来の胸が、きゅっと締めつけられた。
――あぁ。
やっぱり。
わたし、この人のこと―。
そう気づいてしまった時には、もう遅かった。
窓の外では、夜の街を走る車のライトが静かに流れていく。
二人の時間は、穏やかに過ぎていた。
けれど。
その穏やかさが、いつか終わってしまうことを。
未来だけが、痛いほど理解していた。
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