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第9話 1.新米教師

もし、誰かを本当に好きになった時。

ちゃんと、自分の気持ちを伝えられるのだろうか。



「はぁ……」


思わずこぼれた重いため息が、夕暮れの静寂へ沈んでいく。

傾いた陽が、校舎へ長い影を落としていた。

遠くから聞こえるのは、グラウンドや体育館で部活動に励む生徒たちの掛け声。


その賑わいとは対照的に。

校舎裏の海沿いにあるベンチで、一人の女性がぼんやりと海を見つめていた。


覇気のない表情。

どこか疲れ切ったような目。


「……あんなこと言われたら、さすがに落ち込むよねぇ……」


小さく漏れた声は、潮風にさらわれて消えていく。

女性はスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、横のボタンを押した。


薄暗い夕暮れの中。

点灯した画面に、時刻が浮かび上がる。


――18時02分。


ロック画面には、以前友人たちと東京へ遊びに行った時の写真が設定されていた。


楽しそうに笑う自分たち。


その光景を見た瞬間。

脳裏に、あの頃の楽しかった記憶がよぎる。


「……」


胸の奥へ、重たいものが沈んでいく。

まるで鉛が溜まっていくような感覚だった。

女性は重いため息を吐きながら顔を上げ、茜色に染まる空を見つめる。


「……帰らなきゃなぁ……」


ぽつりと漏れた声は、潮風に溶けるように消えていった。


けれど。

女性はベンチから立ち上がれなかった。

海沿いに設置された古いベンチへ深く腰掛けたまま、ぼんやりと水平線を眺め続ける。

夕焼けに染まっていた空は、少しずつ群青色へ変わり始めていた。

遠くでは風に乗って電車が走る音が聞こえる。


グラウンドから響いていた運動部の掛け声も、さっきより数が減っていた。


それでも校舎には、まだ明かりが点いている。


職員室。

教材準備室。

会議室。


誰かがまだ働いている証拠だった。


「……はは」


乾いた笑いが漏れる。

視線を落とすと、スマートフォンの黒い画面に、自分の顔がぼんやり映っていた。


疲れている。

自分でもわかるくらいに。



(……なんか、違ったなぁ)



教員という仕事に憧れたのは、大学生の頃だった。


教育実習、初めて教壇に立った日。


緊張で震えながら自己紹介をした自分に、生徒達は笑ってくれた。

授業を真剣に聞いてくれる子。

放課後に相談へ来る子。


「先生、ありがとう」と言ってくれた子。


あの時間が、嬉しかった。


だから思っていたのだ。

自分も、生徒達を支えられる先生になりたいと。


悩みを聞いて。

背中を押して。

時にはぶつかって。


卒業の日には、「先生が担任でよかった」と言われるような。

そんな教師に、なれると思っていた。


――でも。


現実は、想像していたものと全然違った。


朝は誰より早く出勤。

授業準備。小テストの印刷。提出物の確認。

学級通信の作成。終わらない成績処理。保護者への連絡。

生徒指導の報告書。

会議。

校則対応。


気づけば、一日中ずっと何かに追われている。

授業だけしていればいい仕事では、まったくなかった。


むしろ。

授業をしている時間の方が、少ないくらいだった。


「新任なんだから動いて」

「若いうちは経験」

「とりあえず覚えて」


悪気のない言葉。


それもわかっている。


けれど職員室の空気は、思っていた以上に息苦しかった。


ベテラン教師同士の距離感。

独特の上下関係。

体育会系みたいなノリ。


誰がどの先生派なのか。


どこまで踏み込んで話していいのか。

笑うタイミングすら、未だによくわからない。


失敗するたび。


「あぁ、新任だからね」


そんな空気を感じてしまう。

もちろん、優しい先生もいた。助けてくれる人もいる。


でも。

余裕がなくなると、人はどうしても悪い方ばかり見てしまう。




そして

一番堪えたのは、生徒達の言葉だった。




『先生って、なんか頼りなくない?』


胸の奥が、酷く鈍く痛む。


『前の担任の方が良かった』

『若いだけじゃん』


高校生特有の軽口。


本気で傷つけようとして言ったわけじゃない。


そんなことは、ちゃんとわかっている。

わかっているのに、頭では理解しているのに。


言葉だけが、何度も心に刺さった。


帰宅しても思い出す。

風呂に入っていても思い出す。

布団へ入って、電気を消した後でも思い出す。


最近は。

朝、目覚ましが鳴るたびに、身体が重かった。

学校へ行くことを考えるだけで、胸が苦しくなる日も増えた。


「……向いて、ないのかなぁ」


ぽつりと漏れた弱音。

それを聞く人は、誰もいない。


潮風だけが、静かに彼女の頬を撫でていた。


「……帰ろ」


重い腰を上げ、未来はベンチから立ち上がる。

その時だった。


「おー! 山上先生ー!」


背後から、場違いなほど明るい声が飛んできた。


「……っ」


未来は肩を揺らし、振り返る。

そこに立っていたのは、青いジャージ姿の男性教師だった。


日に焼けた肌に短く整えられた髪。

精悍な顔立ち。


体育教師の、新井田だった。


「新井田先生……」


同じ職場の人間だと認識した瞬間、未来は反射的に背筋を伸ばす。

落ち込んでいた空気を悟られないよう、慌てて表情も整えた。


「どうされたんですか?」


未来が尋ねると、新井田は気さくに笑う。


「全部活終わったんで、校庭走って見回ってたんですよ! まだ残ってる生徒いないかなーって」


軽くその場で足踏みしながら、新井田は続ける。


「山上先生は? こんなところで何してたんです?」

「えっと……」


未来の言葉が詰まる。


退勤後、一人で海を見ながら落ち込んでいました――なんて。

そんなこと、恥ずかしくて言えるわけがない。


視線がわずかに泳ぐ。


「海……綺麗だなって、眺めてたんです」

「あー、いいですね!」


新井田はぱっと表情を明るくした。


「ボクも景色好きなんですよ!」


そう言って彼は海辺の柵まで歩いていき、両手を腰へ当てる。


「んんーーっ!」


大きく胸を開くように深呼吸。

潮風でジャージがばさりと揺れた。

その姿を見ていると、少しだけ張り詰めていた空気が緩む。


ふと。

新井田が未来へ振り返った。


「……悩み事ですか?」

「……えっ?」


未来の肩が、びくりと揺れた。


あまりにも自然な口調だった。


だからこそ。

図星を突かれた瞬間、息が詰まりそうになる。


「い、いや……その……」


咄嗟に視線を逸らす。


口の中が重かった。

さっきまで一人で抱え込んでいた感情が、まだ喉の奥に張り付いている。

無理やり飲み込もうとしても、上手く沈んでくれない。


その時だった。


「子供って、思ったことすぐ口に出しちゃうんですよね」

「……え?」


未来が顔を上げる。


新井田は海を眺めたまま、苦笑していた。

水面には、夕暮れに染まった山影が揺れている。


「悪気ないから、余計キツいんですよ」


潮風が吹く。

ジャージの裾が、ぱたぱたと揺れた。


「先生だって無敵じゃない。一人の人間ですから」


ぽつりと。

静かな声だった。


「ちゃんと息抜きしないと、壊れますよ」

「……どうしたんですか、急に」


そう返した瞬間だった。


未来は気づく。


自分の声が、震えていた。

目元が熱く鼻の奥が、つんと痛む。


「……あ」


気づいた時には、鼻をすすっていた。


「泣いてますよ、山上先生」

「……えっ」


頬を、温かい雫が伝っていく。


未来は慌てて目元を押さえた。


でも。

次から次へと涙が溢れてくる。


「ボクも新米の頃は、ここでよく落ち込んでましたよ」


新井田は海を見たまま、穏やかな声で言った。


「静かで、人も少なくて。なんか……全部ここが飲み込んでくれる気がするんですよね」

「……生徒に」


未来の声が掠れる。

その瞬間、反射的に俯いた。


今の顔を見られたくなかった。


泣き顔なんて。

職場の人に見せたくない。


でも。

一度崩れた感情は、もう止まらなかった。


「頼りないって……」


震える声が、零れる。


「前の担任の方が良かった、とか……若いだけじゃんって……言われて……」


喉の奥が痛い。

涙で上手く息が吸えない。


「私なりに、頑張ってるつもりなのに……っ」


ぽろぽろと涙が落ちる。


溜め込んでいたものが、全部、外へ流れ出していくみたいだった。

涙で濡れた頬へ、潮風で揺れた髪が張り付く。


未来は俯いたまま、肩を震わせた。


「山上先生、頑張ってますよ」


「……え?」


未来が顔を上げる。


新井田は、いつものように人懐っこい笑みを浮かべていた。


「校舎裏で、生徒に話しかける練習してましたもんね!」

「――えっ!?」


未来の顔が一気に赤くなる。


「な、なんで知ってるんですか!?」

「いやぁ、偶然見かけちゃって!」


新井田は悪びれもなく笑った。


「“おはよう!”……いや違う。“最近どう?”……うーん違う、って一人でやってましたよね?」

「み、見てたんですかぁ!?」


未来は思わず両手で顔を覆う。


恥ずかしい。

恥ずかしすぎる。


「めちゃくちゃ頑張ってるじゃないですか」


新井田は笑いながら言う。

でも、その声色はどこか優しかった。


「生徒とちゃんと向き合おうとしてる先生、俺は好きですよ」


不意を突かれた言葉だった。

未来の目が、思わず見開かれる。


ドクン――。


心臓が、一拍強く跳ねた気がした。


「これは四年目の俺からの、ささやかなアドバイスなんですが」

「は、はい!」


未来は反射的に背筋を伸ばす。


両手を腿の横へ揃え、まるで指導を受ける生徒のように“気をつけ”の姿勢になっていた。

緊張のせいで、声が少し裏返る。


新井田は思わず吹き出した。


「あはは、そんな構えなくても大丈夫ですよ」

「す、すみません……!」


未来は顔を赤くする。

そんな彼女を見ながら、新井田は穏やかに続けた。


「体調不良で休まれた前任の大野先生。その印象が、まだ生徒達の中に残ってるんです」

「……はい」


未来の表情が、少し曇る。


「だったら簡単です」


新井田は笑った。


「超えればいいんですよ」

「……超える?」

「えぇ!」


力強く頷く。


「大野先生より良い先生になればいい。生徒に“今の担任の方がいい”って思わせれば勝ちです!」

「……」


未来の視線が落ちる。

脳裏に浮かぶのは、職員達から聞いた“大野先生”の話だった。


面倒見が良く、生徒からも慕われていて。

保護者からの信頼も厚かった。


そんなベテラン教師を。


(超える、なんて……)


自分にできるのだろうか。

弱気が顔を覗かせた、


その時。


「大丈夫!」


新井田の声は、驚くほど真っ直ぐだった。

未来が顔を上げる。


「山上先生、ちゃんと頑張ってるじゃないですか」


水平線の向こうに沈みつつある夕陽を背にした新井田が、眩しいくらいに笑う。


「俺もサポートします。一緒に頑張りましょう!」


屈託のない笑顔だった。

まっすぐで、迷いがなくて。


その力強い眼差しを見ていると、

先ほどまで荒れ狂っていた心が、少しずつ静まっていくのがわかった。


胸の奥に張りついていた不安や焦りが、

ゆっくりほどけていく。


……なのに。


心臓だけは、落ち着かなかった。


ドクン、ドクンと、

さっきよりも強く脈打っている。


未来はそっと視線を逸らした。


もう日は落ちている。


だからきっと。

今の自分の顔が赤くなっていることも、気づかれてはいない。


そう思うと、

少しだけ安心してしまう自分がいた。



――これが、

始まりだった。





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