第8話 10.覚醒
「……っ」
床へ手をつく。
震える腕。
白いドレスは、半分以上が血で赤く染まっている。
横腹からは、今も血が滴っていた。
普通なら、とっくに意識を失い二度と立ち上がれない傷だった。
それでも華は、ゆっくりと片膝をつく。
身体を震わせながら、白目をむいたまま立ち上がろうとしていた。
まるで。
倒れることそのものを、拒絶するように。
「意識がないのに…動いてる」
アヤカは眉間にしわを寄せる。
その赤い瞳に、初めて小さな困惑が宿る。
華の足が、ふらつきながら床を踏みしめた。
ぽたり。
滴った血が、赤い筋を描く。
それでも止まらない。
「……ぁ……っ」
喉が掠れる。
焦点の合っていない瞳。
虚ろなはずの身体。
なのに、その足だけは前へ出ようとしていた。
華は、ゆらりと顔を上げる。
白目をむいたまま。
血に濡れた口元が、わずかに動いた。
「……いか、せ……ない……」
掠れた声。
それでも確かに、そう言った。
「”もう……二度と……”」
震える唇、血が滴る。
「”だれも……失いたく、ない”……!!」
――ゴゥッ!!
直後。
華を中心に、凄まじい風圧が爆発した。
瓦礫が跳ね上がる。床に広がっていた血だまりが波打ち、周囲の粉塵が吹き飛ばされた。
「っ――!?」
冷は目を見開く。
空気が、変わった。
華の瞳に光が灯る。
金色の奥で、赤い螺旋模様がゆっくりと浮かび上がっていく。
―ドクン!
まるで鼓動のように、赤い光が脈打った。
桃色の髪が、ふわりと浮き上がる。血に染まった白いドレスも、風を受けて大きく揺れた。
まるで。
死にかけていた身体へ、再び命が流れ込んだかのように。
「……その目」
アヤカの眉が、わずかに動く。
初めて。
彼女の声に、“警戒”が混じった。
「……お前は、誰だ」
ぼそり、と華が呟く。
誰へ向けた言葉なのかは分からない。
だが、その声は先ほどまでの華とは別人のように低かった。
華の頬へ、亀裂のような金色の光が走る。
ピシッ――と音を立てるように。
周囲を荒らしていた風が、ゆっくりと収まっていく。
華は静かに拳を構えた。
腰を落とす。
その瞬間。
「―加速」
――消えた。
「……っ」
アヤカの瞳が見開かれる。
視界から完全に消失。
気配も。
風も。
殺気すら置き去りにして。
瞬きの刹那。
白い閃光が、視界の下へ入り込んでいた。
「――!?」
気づいた時には。
拳が、腹部へ届く寸前。
ゴウッ――!!
空気が爆ぜた。
遅れて衝撃波が走る。連絡橋の左右に並ぶ窓ガラスが、一瞬で砕け散った。
暴風が通路を貫く。
アヤカの身体が、くの字に折れ曲がる。
「あっ――!?」
次の瞬間。
ドゴォォンッ!!
そのまま奥の壁まで吹き飛ばされ、激突。
コンクリートが砕け、粉塵が爆発するように舞い上がった。通路全体が、大きく震える。
そして。
誰も、声を出せなかった。
たった一撃。
それだけで。
圧倒していたはずのアヤカが、吹き飛ばされていた。
静寂。
粉塵だけが、ゆっくりと舞っている。
「――ほぅ……」
不意に。
真上から、粘つくような声が落ちてきた。
「っ……!」
冷が反射的に顔を上げる。
連絡橋の窓ガラスは、すべて砕け散っていた。
むき出しになった鉄骨。
その上に――アレクザールが立っていた。
風もないのに、漆黒のマントがゆらゆらと揺れている。頭上の赤い炎が、不気味に燃えていた。
「……あのアヤカ君を、正面から圧倒するとは」
その視線は、まるで珍しい実験動物を見る研究者のようだった。
華は何も答えない。
ただ静かに拳を握り、アヤカが吹き飛んだ先を見据えている。
「……その速さ」
アレクザールが、低く呟く。
「単なる怪力ではないネ」
口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「なるほど。光核の力――二つ目が付与されたわけか」
その瞬間。
冷の表情が変わった。
「……二つ目?」
驚きが、そのまま声に滲む。
アレクザールは愉快そうに肩を揺らした。
「本来、人間は光核を一つしか扱えない。器が耐えられないからだ」
頭上の赤い炎が、ゆらりと揺れる。
「だが……怪力の彼女の場合、どういう原理なのかワタシにも分からない」
そこで、ふと。
アレクザールの言葉が止まった。
沈黙。
まるで何かに思い至ったように。
「……いや」
仮面が、わずかに上を向く。
「“ヤツ”が、どこかで見ている可能性がある……というわけか」
その声色が、僅かに変わる。
初めてアレクザールから、“警戒”が滲んだ。
次の瞬間。
ドン――ッ。
鉄骨から飛び降り、連絡橋へ着地する。
重い音が床を揺らした。
アレクザールは華たちへ背を向ける。そのまま、アヤカが吹き飛ばされた方向へ歩き出した。
「今日のところは、引き上げるとしよう」
「……え?」
突然の言葉に、冷が目を見開く。
華は何も言わない。
ただ静かに、アレクザールの背中を睨み続けている。
「ここまで周到に準備を重ねてきたが……ヤツが介入する可能性がある以上、今はその時ではない」
「その時……?」
冷が思わず聞き返す。
アレクザールは足を止めない。
「いずれ知ることになるさ」
そう言って。
足元から、黒い影がゆらりと広がった。まるで底なし沼のように、床を侵食していく。
その時。
崩れた瓦礫の向こう――粉塵の中から、倒れていたアヤカの姿が見えた。
アレクザールは無言のまま、その身体を軽々と担ぎ上げる。
二人の姿は、そのまま黒い影の中へ沈み込んでいった。
ゆっくりと、音もなく。
影が閉じる。
――静寂。
連絡橋には、砕けたガラスと瓦礫だけが残されていた。
「……消えた」
誰かが、ぽつりと呟く。
その直後だった。
ウィィン――……
低いタービン音が、ビル全体に響き始める。冷たく落ちていた照明が、一つ、また一つと点灯していく。
トライデントタワーの窓に、少しずつ光が戻り始めていた。
まるで。
止まっていた世界が、再び動き出すように。
****************************




