第8話 9.命の危機
一方その頃。
「……よしっ」
冷は荒く息を吐いた。
肩で呼吸を繰り返し、額には汗が滲んでいる。
視線の先。
通路には、黒い人間体の残骸が無数に転がっていた。
壁には弾痕。
砕けた床。
焦げた臭いが、空気に残っている。
少し離れた後方では、パーティー参加者達が不安げな表情でこちらを見つめていた。
「連絡橋がある階は敵が多いかもしれないって、キャロさん言ってたけど……本当だった」
冷が小さく息を吐く。
『そっちは大丈夫?』
耳元から、麦の声が聞こえた。
冷は耳に指を当て、二回タップする。
「今、最後の一体を倒したところ。そっちは?」
『後ろは大丈夫! みんな無事よ!』
その声に、冷の表情がわずかに緩む。
「おっけー。じゃあ、みんなに説明するから、そっちもお願い」
『わかったわ!』
通信が切れる。
静かになった通路で、冷はゆっくりと振り返った。視線の先には、不安を隠せない参加者達の姿。
震える者。
肩を支え合う者。
子供のように泣きそうな顔をしている大人もいた。
冷は小さく息を吸う。
そして、はっきりと声を張った。
「連絡があります! 聞いてください!」
びくり、と数人の肩が揺れる。
「これから、二棟へ通じる連絡橋を渡ります!」
冷は一人一人を見るように言葉を続けた。
「わたしの仲間が、このビルのシステムを動かしてくれています! 向こうの塔は、エレベーターや扉の制御も回復し始めています!」
ざわついていた空気が、少しだけ静まる。
「もうすぐ、安全な場所まで降りられます!」
冷は拳を握る。
「だから――落ち着いて、ついてきてください!」
その時だった。
――ゴォンッ!!
腹の底まで響く轟音が、通路を震わせた。
「きゃああっ!?」
悲鳴が上がる。
音は通路の先にある連絡橋の先からだ。
天井が、大きく崩れ落ちていた。
鉄骨がねじ曲がり、砕けたコンクリートが床へ激突する。
衝撃で床が揺れ、先ほどようやく点灯した天井の照明が激しく点滅した。
その中心。
何かが、“落ちてきた”。
「……何?」
冷は咄嗟に前へ出る。
参加者達を背に庇うように立ち、拳を構えた。
舞い上がった粉塵が、視界を白く染める。
何も見えない。
だが。
そこにいる。
本能が、そう告げていた。
「…………」
通路に、重い音が響く。
ガラ、……ガラッ。瓦礫を押し退ける音。
ゆっくりと。
粉塵の奥に、“人影”が浮かび上がる。
そして。
「………え」
冷の目が、大きく見開かれる。
粉塵の奥。崩れた瓦礫の中心に、誰かが倒れていた。
白いドレス。
見覚えのある、桃色の長い髪。
「……華?」
声が、震える。
瓦礫に埋もれるように横たわっていたのは――華だった。
白いドレスは、横腹を中心に深紅へ染まっている。
裂けた布の隙間からは、痛々しい傷口が覗き、滴った血が床へ広がっていた。
肩はかすかに上下している。
だが、それだけだ。
いつものように笑わない。
飛び起きない。
軽口も返ってこない。
ぐったりと倒れたまま、動く気配がない。
「――華ッ!!」
冷は顔色を変え、駆け出した。
ヒールが砕けた床を打つ。
瓦礫を蹴飛ばしながら、華の元へ手を伸ばす。
その瞬間。
――ガシャンッ!!
頭上のガラス天井が砕け散った。
鋭い破片が雨のように降り注ぐ。
「っ!?」
直後。
ドガァン!!
冷の目の前へ、何かが突き刺さった。
咄嗟に足を止める。
砕けた床に深々と突き立っていたのは――漆黒の剣。
黒い粒子が集束し、形を成している。剣身からは不気味な黒紫の光が漏れていた。
「ここにいた」
真上から、静かな声。
冷は反射的に顔を上げる。
そこにいたのは――アヤカだった。
ダークブルーのドレス。腰まで届く黒いツインテール。
頭には、三つの鋭い突起を持つ王冠。その赤い瞳だけが、暗闇の中で妖しく輝いている。
ふわり、と。
重力を感じさせない動きで舞い降りる。
まるで、人ではない何か。
「アレクザールが、このビルのAIを制御したって言ってたけど」
アヤカは冷を見つめる。
「セキュリティを越えて、ここまで来れたんだね」
「……ブラック、ナイト」
冷は右手を構える。
喉が、ひどく乾いていた。目の前の存在から目を逸らせない。
本能が警鐘を鳴らしている。
――危険だ、と。
「でも」
アヤカの瞳が細くなる。
「逃がさないよ」
ぞくり、と。
空気が冷えた気がした。
アヤカはゆっくりと視線を上げる。
その先。
黒雲が渦巻く、塔の遥か上空。
「もうすぐ、ヘルズゲートが完全に開く」
低い声が、通路に響く。
「その時。この三つの塔に刻まれた刻印が発動する」
黒紫の光が、アヤカの足元に揺らめいた。
「このビルにいる人間は、“贄”になる」
一拍。
そして。
「――全員、死ぬ」
その言葉に。
後方にいたパーティー参加者達が、一斉にざわめき始めた。
「な、なんだよそれ……」
「死ぬって……」
「嘘だろ……?」
恐怖が、波のように広がっていく。
驚きと困惑で目を見開く冷は同時に、奥歯を噛み締めた。
背後から伝わる震え。
怯えと絶望。
その場に渦巻く負の感情すべてが、冷の肩へ重くのしかかる。
「もし、この先へ進もうとするなら――」
アヤカが、静かに右手を振り上げた。
ゴィンッ――。
床へ突き刺さっていた漆黒の剣が、不気味に軋む。
生き物のように身をしならせながら宙へ浮かび上がり、黒い粒子を散らしてアヤカの手元へ戻っていく。
握られた瞬間、空気が張り詰めた。
「ここで全員……殺す」
「っ……!」
冷の喉が鳴る。
その時だった。
――ピッ、ピッ。
耳元で通信シグナルが鳴り響く。
冷はアヤカから視線を逸らさないまま、耳へ指を当て二度タップした。
「どうしたの、麦!?」
『マズいわ! 奥からまた大量に来てる!』
向こう側では、戦闘音が響いている。
麦の息も荒い。
『早く進まないと、こっちも持たない!』
「くっ……まだ残ってたの……!」
冷の表情から、余裕が消える。
前にはアヤカ。後ろには三百人近い避難者。
さらに麦側も限界。
逃げ場がない。
そんな冷を見て。
アヤカは、わずかに口元を緩めた。
「生きて、返さない」
静かな声。
それなのに、刃のように冷たい。
「全員――ここで」
だが、不意に。
アヤカの言葉が止まった。
「……?」
冷も気づく。
後方の参加者達も、ざわめきを止めた。
視線が、一点へ集まる。
瓦礫の中。
血だまりの上に倒れていた華が――動いた。




