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第8話 5.接近

「えーっと……」


冷はパーティー会場を見渡す。

だが、探している渚隆司の姿は見当たらない。

視界に入るのは、一目で高価と分かる服や装飾に身を包んだ人々ばかり。

日常とはかけ離れた空間にいることを、改めて実感する。


冷は、わずかに眉をひそめた。


「……あ」


ふと、見覚えのある背中が目に入る。

冷は早足で、その後を追った。


会場を抜け、赤い絨毯の敷かれた通路へ出る。

足音を響かせながら進むが――

突き当たりの休憩スペースに差しかかったところで、足が止まった。


「……あれ、こっちじゃなかったんだ」


「今さら何を言うんだ!」


奥から、怒鳴り声に近い声が響く。


(なに、今の……?)


冷は息を潜める。

足音を殺し、壁に背を預けた。


そのまま壁伝いに進み、曲がり角へ。


自販機の横にある大きな窓ガラス。

そこに、奥の様子が反射して映っていた。


――渚隆司。


そして、もう一人。

誰かと向き合い、話している。


(……やっぱり)


反射に自分が映らない位置まで、そっと身を引く。


その瞬間。

もう一人の姿が、はっきりと視界に入った。


(あれって……昨日、会場にいた……)


緑のスーツの男。


事態を飲み込めないまま、冷はさらに身を引く。ガラスに映らない位置へと移動し、耳を澄ませた。


――会話が、はっきりと聞こえる距離。


冷は、息を殺した。


「……端末は持ってきたか?」


低く押し殺した声。

緑のスーツの男は、不気味に口元を歪めている。


「これだ」


渚隆司は、手にしていた薄型のタブレットを差し出した。

男は無言で受け取る。


「それでいい」


次の瞬間――

男の顔が、崩れた。


(……え?)


皮膚が、溶けるように剥がれ落ちる。

輪郭が歪み、造形が書き換わる。


現れたのは――模様のない、白い仮面。


感情を一切映さない、無機質な“顔”。


(なに……これ……?)


冷は思わず一歩、前に出る。窓ガラス越しに、その異様な光景を見つめた。


「さて――」


仮面の男が、ゆっくりと首を鳴らす。


「とっておきの“ショー”の、最終準備といこうか」


その身体が、膨張する。


スーツが軋み――破れる。


布が裂ける音が、静かな空間に響いた。

露わになったのは、常識を逸した巨躯。

身の丈、三メートル。漆黒のマントが、風もないのに揺れている。


そして――その頭上。

赤い炎が、音もなく燃え上がっていた。


(……誰……?)


冷の喉が、かすかに鳴る。


その存在は、“人間”ではない。

本能が、そう告げていた。


ほどなくして、渚隆司の身体が崩れ落ちる。

糸を切られた人形のように力なく、床へと沈んだ。


「負の感情が大きい人間ほど、操りやすいものさ」


低い声が、空間に落ちる。


「これも影喰の力……勉強になっただろう?」


その一言が――空気を、変えた。


ひやりとしたものが、首筋をなぞる。

冷房とは違う、底のない冷たさ。


息が、浅くなる。

肺がうまく動かない。


(……なに、これ……)


視界の端が、わずかに暗くなる。

立っているだけなのに、足が震える。


“見られている”


そう確信した瞬間――心臓が、強く跳ねた。


「――アイアンガール」


名を呼ばれた、その一瞬。

背筋に、氷の杭を打ち込まれたような悪寒が走る。


(……っ!?)


鼓動が、乱れる。


隠れているはずなのに、

“すべて見透かされている”感覚。


逃げ場が、ない。

空気そのものが、重い。


押し潰される。


(動けない……)


指先に、力が入らない。呼吸の仕方さえ、分からなくなる。

ガラス越しの“それ”は、振り向いていない。


それなのに――確実に、こちらを捉えている。


「隠れるのは得意な方かい?」


声は、すぐ耳元で囁かれたように響く。

距離が、分からない。


遠いはずなのに、近い。


(……来る……!)


本能が、全身の神経が警鐘を鳴らす。

――逃げろ、と。


だが――身体は、動かない。


「初めまして」


その声が、すぐそばで落ちた。


(……え?)


次の瞬間。


視界が、影に覆われる。


ゆっくりと、首を持ち上げる。錆びついたように、動きが重い。


そして――目の前に、“いた”。


アレクザール。

音もなく、そこに立っている。


(……いつの間に……)


距離の感覚が、壊れる。


さっきまで、離れていたはずなのに。


「ワタシはアレクザール」


白い仮面が、わずかに傾く。


「君達の噂は、かねがね聞いているよ――アイアンガール」


その名を呼ぶ声は、穏やかだった。


だが。

そこに宿る“何か”が、決定的に違う。


圧。


存在そのものが、重い。

息をするたびに、肺が軋む。


(……近い……)


逃げ場がない。

視線を逸らすことすら、許されない。


「ワタシの放った眷属をすべて倒す活躍……実にあっぱれだよ」

「……だ、誰……ですか」

「そう怯えなくていい」


アレクザールは、わずかに首を傾けた。


「これから相対する相手だ。仲良くしようじゃないか」


穏やかな口調。

だが――冷の緊張はほどけない。


わずか一メートル。

その距離にある“見えない圧”が、神経を締めつける。

眉間の皺は、消えないままだ。


「今日は挨拶も兼ねて……このビルを、生贄の祭壇にしに来たのさ」

「なっ……何をするつもり!」

「さあね。それは、これからのお楽しみだよ」


次の瞬間。


――風を裂く音。


真横から、テーブルの台座が飛来する。

アレクザールは、マントからゆっくりと右手を伸ばした。


空中で、止める。

余波の風でマントが僅かに揺れた。


台座は、ぴたりと空中で静止。

ミシミシ、と嫌な音が響き表面に亀裂が走る。


次の瞬間、腐食が広がった。


金属も木も関係なく崩れ、粉となって床に落ちた。


「……危ないねぇ」


肩をすくめる。


「人に物を投げてはいけないと、習わなかったのかい?」


ゆらりと、振り向く。


その先―廊下の十字路。

低く構えた華の姿があった。


「危ないやつは、全力で殴れって習ってるんだよ!」

「ほう……怪力の方のアイアンガールか」

「……こいつ!」


華はさらに腰を落とし、拳を前に突き出し構えた。


その時。


「……氷結の女帝」


低く落ちる声。

華の瞼が、わずかに上がる。


「その構え。氷結の女帝の流派だろう?」


アレクザールの声が、楽しげに歪む。


「よく知っている。なぜなら――」


わずかに首を傾ける。


「ワタシが、殺したからだ」

「……は?」


空気が、凍る。


華の表情が消える。

目が見開かれ、眉が吊り上がった。


瞳の奥に、怒りが灯る。


「弟子がいるとは聞いていたが……まさか君だったとはね」


くつくつと、喉の奥で笑う。


「これも皮肉な運命だ。神様のいたずらにしては、出来がいいと思わないかい?」


――言い終わるより、早い。


華が、カーペットを蹴った。


一気に距離を詰める。

踏み込みと同時に、後ろに引いていた拳を打ち出す。


――ガギィン!


甲高い音が、通路に響いた。


「……くっ!」


止まっていた。


拳は、アレクザールに届く寸前で静止している。


押し込もうとする。

だが、動かない。

足の踏ん張りに耐えられず足元が、ゴシンッと陥没する。


拳の周囲に、透明な波紋が広がっていた。


それだけだ。

一ミリも、前に進まない。


「その程度の怪力では障壁は越えられない。ワタシには、届かない」


淡々とした声。


「アヤカ君にも、かなわないよ」

「……アヤカ?」

「君が影喰の腹の中で戦った、黒い戦士さ」


わずかに、愉快そうな響きが混じる。


「人間は、光核の力を一つしか持てない」


一拍、置く。


「だが彼女は違う。影喰の力を、複数持っている」


静かに、断言する。


「到底――君達では歯が立たない」

「……だから、なんだってんだ!」


華の叫びが、通路を震わせる。

怒りが、あふれていた。


その様子を見て――後ろで見守っていた冷は、息を呑む。


(……あの華が……)


目を見開く。


(あんなに怒ってるの、初めてかも……)


ただ立っているだけなのに、圧が伝わってくる。

冷の喉が、小さく鳴った。


「このままでは、つまらないな」


アレクザールが、わずかに首を傾ける。


「なら――見せてくれないかい。アイアンガールを」


その瞬間。

見えない衝撃が、華を弾いた。


身体が浮く。


そのまま、通路を転がる。

だが――華は跳ねるように起き上がり、着地。


すぐに、構え直す。


「なったところで、結末は変わらない」


冷たい声。


「そこで見ているといい」


ゆっくりと、腕を広げる。


「このビルに集う三百人の人間が――生贄に変わる瞬間を」


言い終えると同時に、アレクザールの背後に黒い裂け目が走る。

闇のような“筋”。


その中へ、すっと溶け込むように姿を消した。


直後、裂け目は閉じる。

静寂。


遅れて舞い上がった埃が、はらはらと床に落ちていく。


「……何をするつもりだ」


華は、顎を伝う汗を手の甲で拭った。


――ハッとする。


すぐに、少し離れた場所にいる冷へ視線を向けながら駆け寄る。


「大丈夫?!」

「う、うん……ありがとう」


その場に、冷は力なく座り込んだ。

まるで張り詰めていた糸が、切れたように。


「何もされてない?」

「うん。華が来てくれたから……助かった」

「……そっか」


小さく、息を吐く。


その時だった。


華の視線が止まる。

床に手をついたままの冷。その肩が、わずかに震えている。


表情は、笑っている。

けれど――瞳の奥に、不安が残っていた。


華は目を細める。


ゆっくりと近づき、隣にしゃがみ込む。

そして、そっと肩に手を置いた。


「……え?」


冷が、驚いて振り向く。


華は何も言わない。


ただ、力強く頷いた。


まっすぐな笑み。迷いのない瞳。

その光を見て――冷の張り詰めていたものが、すっとほどける。


「……うん」


小さく、頷く。

震えが、少しずつ収まっていく。


「行こ」


華が立ち上がる。

その手が、差し出された。


「まだ終わってないでしょ」


いつもの調子。

けれど、その声には確かな強さがあった。


冷は一瞬だけその手を見て――そっと握り返す。


「……うん」


ゆっくりと、立ち上がった。


「あ、見つけた!」


背後からの声に振り向く。

麦が、こちらへ駆け寄ってきていた。


慣れないヒール。

ドレスの裾を押さえながら、ぎこちない足取りで走ってくる。


「急に華ちゃんが走り出すから、気になって……」


言いかけて、足が止まる。


二人の空気に、違和感を覚えたのだ。


「……何か、あったの?」

「さっき、影喰が出た」


冷の声は、落ち着いていた。

だが、その奥に緊張が滲んでいる。


「え? でも……いないわよ?」


麦は周囲を見回す。

気配はない。

静まり返った通路だけが広がっている。


「もう消えた。でも――」


一拍。


「このビルで何かするって言ってた。生贄がどうとか……」

「……え……?」


空気が、張り詰める。


その時だった。


――ビーッ、ビーッ、ビーッ!


甲高いブザー音が、通路に響き渡る。

規則的に、何度も。


「なに、この音……?」


麦が耳を押さえる。

直後、天井のスピーカーから無機質な音声が流れた。


『緊急警報。緊急警報。当施設内にて異常事態を検知しました。ご来場の皆様は、係員の指示に従い――』


音声が、途切れる。


――ザザッ。


ノイズ。


そして。


『……さぁ、ショーの始まりだ』


一瞬だけ混じった、別の声。

低く、冷たい。


「……っ!」


冷の背筋が凍る。


「今の……!」


華が顔を上げる。


ブザーは止まらない。

空気が、一気に変わる。


――ゴォン……


重たい音が、通路の奥から響いた。


「……?」


三人が同時に振り向く。


ゆっくりと。

だが、確実に。

隔壁シャッターが、降りてきていた。


逃げ道を塞ぐように。

押し潰すように。


「なに?!何が起きてるの?!」


麦の声が震える。


「封鎖だ……!」


冷が即座に言い切る。


「この階ごと閉じ込めるつもり……!」


ガシャンッ!!


背後でも、もう一枚のシャッターが落ちる。


挟まれた。

完全に、逃げ場がない。


「ちょっと待って、冗談でしょ……」


麦の顔が青ざめる。


「冗談じゃない」


華が一歩前に出る。

拳を握る。


「向こうから“ショー”って言ってきたんだ」


その目が、鋭くなる。


「なら――こっちもやることは一つ!」


低く、吐き出す。


「ぶん殴る!」


ブザーの音が、さらに強く耳を打つ。


閉ざされた通路。


迫る気配。見えない敵。

そのすべてを前にして――三人の空気が、切り替わる。




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