第7話 9.残酷と現実
「うわああああああああ!」
暗い洞窟のような空間に、少年の悲鳴が響き渡る。
リョウは涙を撒き散らしながら、ひたすら落下していた。
背後から迫る気配。
その瞬間、甘い香りが鼻をかすめる。
「――!」
振り向いた視界に、白いドレスが翻る。
桃色の髪をなびかせた華が、一直線に追いついてくる。
次の瞬間、腕を強く掴まれた。
「捕まえた!助けに来たよ!」
「助けに来たって……一緒に飲まれてるじゃん!」
「そうともいう!」
「そうとしか言えないって!」
リョウのツッコミに、華はにかっと笑う。
落下の中、リョウを抱き寄せながら拳を強く構えた。
「しっかり捕まってな!」
体をひねり、反動を乗せて拳を叩き込む。
だが、深く食い込んだ直後、弾かれるように跳ね返された。
「くっ……体液で、打撃が通らない!」
華は一瞬、下を見る。
薄暗い空間の奥に、船のような影が見えた。
咄嗟にリョウを抱え直し、姿勢を整える。
――ゴスン!
鈍い衝撃とともに、甲板へと叩きつけられた。
土煙が舞い上がる。僅かに足元のきしむ音が止み、土煙が晴れた後には立ち上がる華の姿があった。
「ふぅ、なんとか無事に着地できたね」
華は抱きかかえていたリョウを、そっと床に下ろす。
「大丈夫だったか?」
「う、うん……」
問いかけられたリョウは、顔を赤らめてそっぽを向く。
「それにしても……ここ、影喰の腹の中なのに。なんでこんな空間があるの?」
眉をひそめ、華は周囲を見渡す。
波の音はない。風もない。
空気の流れすら感じられない。
ただ、遠くで水滴が落ちる音だけが、ぽつり、ぽつりと響いていた。
薄暗く、静まり返った空間。
その中に、二人は立っている。
「……」
リョウが一点を見つめたまま、動かない。
「どうした?」
「あ、あれ……」
震える指が、前方を指す。
甲板の先――操縦席らしき建物があった。
「中に……なにかいる……」
「え?」
青ざめるリョウの言葉に、華は目を細めて歩み寄る。
コツ、コツ、と白いヒールが甲板を打つ。わずかに軋む音が、不気味に響く。
曇ったガラス越しに、操縦席の中を覗き込む。
その瞬間――華は、目を見開いた。
椅子に座っていたのは、
白骨化した、二人の遺体だった。
「うわあああ!」
後ろから見ていたリョウが声を上げ、身を縮める。
「し、死体だ……ガイコツだ……」
怯える声を背に、華は操縦席から離れテラスに回り込む。
そして、中央に引き戸へ手をかけ、力任せにこじ開けた。
――ガラッ!
土埃が濁流のように押し寄せる。
同時に、鼻を突く生臭い異臭が広がった。
視界が晴れたとき、華は眉をひそめる。
中へ一歩踏み込む。
そこは――客席だった。
座席には、無数の遺体が並んでいる。
そのどれもが、肉が溶け落ちたように骨をさらしていた。
腐食が進み、もはや生前の姿を留めていない。
それでも――
全員、席に座ったままだった。
「な、なんだよ……これ……」
華の後ろに隠れながら様子をうかがうリョウの声は、か細い。
「……三十人」
華が、静かに数を告げる。
「こっち来て」
華はリョウの手を引き、客席を出る。
テラスを抜け、再び操縦席の前へと戻った。
「ど、どうしたんだよ!」
「……たぶんだけど、お母さんじゃないかな」
「……え」
リョウは、一瞬言葉を失う。
眉が跳ね上がり、目が見開かれる。
恐る恐る、操縦席の中へ視線を向けた。
「……うそだ」
何かに気づいたリョウは、
首から下げた黄色いペンダントを強く握る。
華も視線を向ける。
操縦席に座る遺体――その首元。同じ形、同じ色のペンダントが、そこにあった。
「うそだ!!うそだ、うそだ!」
現実を否定する少年の叫びが、無音の空間に木霊する。
「こんなのが……かあちゃんのわけない!こんな……こんな……!」
言葉が崩れていく。
やがてリョウは膝から崩れ落ち、肩を震わせた。
「ちがう……ちがう……うっ……」
声に涙が混じり、嗚咽へと変わっていく。
華はその隣で、静かに目を細めた。ふと、もう一体の遺体へ視線を向ける。
よく見ると――
二つの遺体は座席からわずかに身を乗り出し、互いに寄り添うような姿勢を取っていた。
「ああああああああ!」
リョウの悲痛な叫びが、再び響く。
まだ十にも満たない少年が、両親の最期を目の当たりにしている。
その涙は止まらず、乾いた甲板へと落ちていった。
「……君は、お母さんの仇を取ろうとしてたよね」
華が静かに口を開く。
「私も、少しだけ“似た境遇”だから。気持ちは分かるよ」
顔を上げた華の目は、どこか遠くを見ていた。
「けど……君が相手にしようとしていたやつは、こんなことを平気でやる」
「――その通り」
不意に、どこからともなく声が響いた。
振り向く。
少し離れた場所――
船首だけが上を向いた状態で座礁している船。その先端に、人影があった。
足を組み、肘を腿に乗せ、頬杖をつく少女。
ニィっと笑みを浮かべている。
「人の絶望を好み……感情を餌にする。それが影喰」
軽く肩をすくめる。
「この船に乗ってた人間は、みーんな……”餌”になったってわけ」
「誰だ!」
華が鋭く問い返す。
少女は立ち上がり、ふわりと跳んだ。
「……誰だろうね」
掲げた右手に漆黒の粒子が集まる。
やがてそれは、禍々しい球体へと形を成した。
頭上には、三つの鋭い突起を持つ王冠。腰まで届く黒いツインテールが、ゆるやかに揺れる。
ダークブルーのドレス。
腰の赤いリボンが、尾のように揺らめいた。
少女の瞳が見開かれる。
その奥で、瞳孔が開き――赤く光った。
「ブラックエンケイ!」
放たれた漆黒の球体が変形する。
それは鋭い半月状の刃へと姿を変えた。
咄嗟に華は、泣き崩れて動けないリョウを抱き上げ、跳ぶ。
次の瞬間――
ブラックエンケイが着弾し、甲板を大きく抉った。遊覧船が悲鳴のような軋みを上げ、傾く。
「守る者を抱えて戦うのって、どんな気分!」
少女が笑う。
続けざまに、両手へ同じ半月状の刃を生成。
間髪入れず、投げつけてくる。
華はリョウを抱えたまま二階へ跳び上がり、着地する。
左へ。さらに右へと身を翻し黒い投刃を回避。
かすめる軌道で刃が通り過ぎる。
その一瞬、華の視線が走った。
――手すりが、消えている。
切断されたのではない。
そこだけ、綺麗に“削り取られていた”。
「なに、これ……」
華の目が揺れる。
(こんなの、見たことない……光核の力じゃない。これは――)
「光を無に返し、形あるものを消滅させる」
背後から、冷たい声が突き刺さる。
振り向いた瞬間、背筋に悪寒が走った。
腹の内壁すれすれ――天井付近に、少女が浮かんでいる。
その両手には、黒い粒子が渦を巻きながら集まり、球体を形作っていた。
「絶対破壊の力。それが“漆黒暗黒”。――光核と対を成す力」
「影喰にも能力がある……?水晶だけじゃないのか!」
「……水晶は“おまけ”。本体は、あたしよ!」
黒い粒子の動きが、一段と活発になる。
稲妻のような黒が走り、周囲の空気が吸い上げられていく。
空間そのものが、じわりと漆黒に染まっていった。
「分断作戦は成功ね」
「なに?!」
「三人まとまってると厄介だもの。―だから、一人だけ切り離して戦力を削ぐ」
「……まさか、それでこの子を!」
「何も守れない、力もない無力な人間でも――“餌”にはなる」
くすり、と笑う。
「安心して。アイアンガールごと、ちゃんと“母親のところ”に送ってあげる」
「ふざけるな!!」
華の咆哮が、空間を震わせた。
「勝手に決めつけんな!この子が何も守れない?なんでそんなことがわかるの!」
ちらりと、抱きかかえたリョウへ視線を落とす。
「今は小さい。でも――いつか大きくなる。。たしかに、お母さんは守れなかったかもしれない」
一拍、間を置く。
「それでも――大きな影喰に、一人で立ち向かおうとする背中は……ちゃんと“ヒーロー”だったよ」
「……お姉ちゃん」
リョウの表情が崩れる。
頬を、涙が伝った。
「大丈夫。君のお母さんは、きっとこれからも見てる」
華が一歩、前へ踏み出す。
――カツン。
ヒールの音が、静かに響いた。
「だから――私が、君をここから必ず助け出す!」
「……戯れは終わった?」
黒い粒子が、限界まで収束する。
やがてそれは、巨大な黒球へと姿を変えた。
漆黒の稲妻が、その表面を走る。
空間そのものが軋むような圧が、辺りを満たす。
「ブラック――ストライク」
突き出された両手。
放たれた二つの黒球が空中で歪み、融合する。
さらに巨大化したそれは、稲妻を撒き散らしながら――
一直線に、華とリョウへと迫る。
――だが。
華は、顔を上げた。
抱えていたリョウを一度下ろし、背中へと担ぎ直す。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
腰を落とす。
両足に力を込める。
拳を、腰だめに構え。
すぅ、と息を吸い込む。
その瞳孔が開き――目が、黄金に染まった。
「――怪力拳!!!」
ドンッ!!
鈍く、重い衝突音が響く。
遅れて衝撃の風は波紋状に広がり、影喰の腹の内側が大きく揺れた。
紫の海が波打ち、遊覧船が沈み込む。
華の足元が、わずかに陥没する。
「ん……!?」
少女の眉が歪む。
「普通の物体は消えるかもしれないけど――怪力は、光核側の力だ」
にかっと、華は笑う。
「なら――ぶん殴れるってことだろ!私は――」
拳に、さらに力がこもる。
「お前をぶん殴りに来た女だ!!」
一歩、踏み出す。
そのまま、押し込む。
ブラックストライクに、亀裂が走る。
――パキン。
ひびが広がる。
次の瞬間。
それはガラスのように砕け散った。
破片は空中でほどけ、黒い砂となって景色に溶けていく。
「……くっ」
華の表情が、わずかに歪む。
左手で右手首を押さえ、ゆっくりと握っては開く。
(……一発で、ここまでビリビリ来るんだ)
「……」
少女は、静かに目を細めた。
華を見下ろす。
「……まぁ、いい」
その背後に、黒い“裂け目”が生まれる。
渦を巻きながら広がり、さらに深い闇が口を開いた。
「収穫はあったわ。あたしの用事は、ここまで」
少女の身体が、背中から闇に溶けていく。
「また会えたらいいわね――生きてここから出られたら、だけど」
「どうかな!」
華がにかっと笑う。
その瞳には、まだ光が宿っていた。
――その時。
後方で、閃光が弾けた。
思わず目を閉じるほどの光量に少女が顔をしかめ、振り返る。
暗闇に満ちていた腹の奥。
その中心で、光が膨れ上がっている。
――二つの影が、浮かび上がった。
「まさか……突破してきたの?」
「私には友達がいる!信頼できる、友達が!」
腹の内壁に、ひびが走る。亀裂は広がり、空間そのものが軋み始めた。
光の中から二つの影が飛び出す。
座礁した船の残骸を蹴り、一直線に跳躍。
華のいる遊覧船へと着地した。
「華!大丈夫?」
「ふぃー、やっと中に入ってこれたわね」
冷と、麦だった。
「平気!リョウ君も無事だよ!」
「よかった……」
胸をなで下ろす冷。
その隣で、麦は上を見上げていた。
「あれは…?」
「……ブラックナイト」
眉をひそめ、華が呟く。
冷笑を浮かべた少女は、そのまま闇の奥へと溶けていく。開いていた空間は閉じ、黒い裂け目も完全に消滅した。
次の瞬間――
腹の内壁が崩れ落ちる。
巨大な骨がむき出しになり、閉ざされていた空間が裂けた。
その向こうに、外の景色が広がる。
茜色の空。
眼下には、穏やかな海。
気づけば、日は沈みかけていた。
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