帰宅
仕事が終わり、帰宅する。
定時で帰ってきた筈なのにめちゃくちゃ疲れた。やはり休み明け初日は脳も体も全く動かん。
そんな俺とは反対に課長はてきぱきとこなしてていた。あの人やっぱすげぇや。
だと言うのに、課長はまだ仕事中である。
もともと自分の仕事が多いということもあるが、それ以上に今日は谷野さんが休みであり、その分の仕事も受け持っていたとか何とか。
一応俺も微力ながら手伝いを申し出たが、断られてしまった。
おそらく、早く帰らせて子供達に心配をかけさせないように配慮してくれたのだろう。
課長がどれだけ残業してくるかは分からないが、帰ってくるのが遅くなり得る。
そういう意味では今朝一緒の車で出勤しなくて良かったと感じる。
ならばここは俺が皆のご飯の準備だったりとかをしなければならない。
課長ほど上手く出来ないかもしれないが、喜んで貰えるように頑張ろう。
――それにしても。
谷野さんが突発的な休みを取るなんて珍しい。
愛衣ちゃんの学校行事とかで有給を使っているのは知っているが、こういった休みは俺が知る限り初めてだ。
あまり聞いちゃいけないと思いながらも課長に聞くと、何でも休み中に怪我をしたとか。
幸い大事には至ってなく、本人も来る予定だったが、真衣さんに止められたとか何とか。
電話をしてくれたのも真衣さんだったらしい。
まあ、昼休みに携帯見たらしれっと通知来てたから、さほど重病というわけでもなさそうだ。そのへんは安心した。
ホッしたと同時に早く治せと急かしたくもなった。じゃなきゃ課長が可哀想だ。
てきぱき仕事をこなしていたものの、終始落ち着き無く、ずっとそわそわしていたんだから。
俺は事情を知っているからいいものの、他の人は絶対近寄りがたいだろうな思っていた。
あれじゃあ目の前にご飯が置かれているのに、ずっと待てを言われているワンちゃんくらい可哀想である。
そうこう考えている間に玄関前まで辿り着いた。
鍵を差し込み、扉を開けてただいまと言おうとした瞬間――
「由希ちゃん! あっ……」
音を聞くなりラウちゃんが駆け寄ってきた。
待てが解かれたワンちゃんのように勢い良く、笑顔を見せながら一目散に走ってきた。
けどそれが俺を見た瞬間、一瞬のうちに消えてしまった。
明るい笑顔が消え、耳も力無く垂れてしまっている。
ごめんね、由希ちゃんじゃなくって……。
「えっと、ただいまラウちゃん……」
「は、はい。おかえりなさい……」
心の中で謝り、何と声を掛けていいのか分からずながらも、何とか言葉を捻り出す。
それにラウちゃんも答えてくれたが、お互いに気まずい空気が流れているのは誰の目から見ても明らかである。
「あの、その……ゆ、由希ちゃんは……」
心なしかラウちゃんの顔が赤い。何かもじもじもしている。
多分、普段課長にしか見せない部分を俺に見られて恥ずかしがっているのだろう。
ラウちゃんはその顔を見られまいと伏せながらも、その目は俺を捉えて離さない。所謂上目遣い的なあれが妙に庇護欲を駆り立てられる。
「ごめんね。由希ちゃん、まだお仕事中なんだ。もう少し待っててね」
俺がそう言うと、ラウちゃんの目が潤んだ。
これはヤバい。泣き出してしまいそう……
「だだ大丈夫だから。すぐ帰ってくるだろうから。もうちょっとだけ待と! ね?」
何とか泣かせまいと慌てふためきながら俺はラウちゃんに声を掛けた。
ついでに頭を優しく撫でていると落ち着いてくれたのかラウちゃんはこくりと頷いた。
あ、危なかった。もし泣かれていたら罪悪感がひどい。子供に泣かれるのは心がキュッとなる。
「そ、そういえばルフと竜華は? アレイスターさんも何してるの?」
落ち着いてくれたところでラウちゃんに聞いてみた。
最初の方はちゃんとお出迎えをしてくれたのに、最近はまばらになっていた。
何でも見たいテレビがある時間帯らしい。
テレビに負ける兄の存在が滑稽すぎる。いやしかし、ポジティブに考えるならこれは成長と呼ぶべきなのだろうか。
もしそうならば喜びはあるけども少しだけ、ほんの少しだけ寂しい気もする。
「ルフちゃんはテレビ見ていて、竜華はアレイスターさんとしゅ、修行? してるよ」
「そうなんだ。ラウちゃんは何してたの?」
「ラウはねー、ゴロゴロしてた。由希ちゃんも好きなんだよ!」
ラウちゃんが嬉しそうに答えてくれた。
どうやら課長も好きなゴロゴロしていたらしい……ん? 課長も好きな……?
「へ、へぇー。ラウちゃんはいつも由希ちゃんと一緒にゴロゴロしてるの?」
「うんっ! 由希ちゃん全然動かないの!」
へ、へぇ……。課長が、あのいつもきびきびしている課長が……。
にわかに信じられん話ではあるが、一緒に暮らしているラウちゃんが言うと、信憑性が増す。
「……あっ!」
そう説明してくれたラウちゃんが何か思い出したかのように突然に大きな声を上げた。
「どうしたの?」
「このこと言っちゃいけないんだった。とくに、その……」
どうやら口止めされていた事を言ってしまったらしい。
目を泳がせながらラウちゃんが続けた。
「慶志郎お兄ちゃんには絶対言うなって」
「へっ? 俺……?」
「あわわ、どうしよう……」
しかも俺には禁句だったようで何だかあわあわしだした。
「じゃあこれは二人だけの秘密だね。皆にはシーだよ」
ラウちゃんが困ってそうなので、とりあえず俺は鼻に指を当てながら、そう言って小指を突き出した。
けどラウちゃんはよく分かっていなそうにこてんと首を傾げる。
俺はラウちゃんに同じようにやってみてと言って続けた。
「こうやって小指同士で絡めて――」
「こ、こう……?」
「そうそう。そして、指切りげんまん」
「ゆ、ゆびきりげ、げんまん……?」
「うん、約束したよって意味」
「そ、そうなんだ」
指きりをした小指を不思議そうにラウちゃんは眺めていた。
まあ、こっちの世界のおまじないみたいなものだけあって知らないのも当然だろう。
しかしこれならラウちゃんが秘密を話すことも無い。
そのへんを疎かにしていた課長は爪が甘い。
「ちなみに、約束を破ったら――」
「や、破ったら……?」
ラウちゃんの耳にこそっと。
「針千本飲まなきゃいけないの」
「ぴゃうっ!?」
「そうやって皆大人になっていくんだ」
「ゆ、由希ちゃんも……?」
「うん」
勿論嘘である。ちょっとした茶目っ気だ。
そういう意味なら俺が針千本飲まなきゃいけない。
けどラウちゃんはそれを鵜呑みにしていそうであり、これなら漏れることは絶対にないだろう。
「ぜ、絶対誰にも言わない!」
「ふふっ。さ、由希ちゃんが帰ってくるまでにご飯の準備しちゃいますか」
「うん! ラウ、お手伝いする!」
「――うおおぉぉぉおおっ!!」
すっかり信じ込んだラウちゃんとリビングへと向かおうとしたその時、けたたましく吼えた竜華の雄叫びが轟いた。
「な、何だ、何だ何事だっ!?」
「ひゃうっ!?」
無論、竜華のそんな声聞いたことなかった俺は急いでリビングへと向かった。
ドアを開いた先、そこで竜華が天井に大きく両腕を突き上げるようにガッツポーズしていた。
それをアレイスターさんがうんうんと頷きながら見ている。
その光景に戸惑いながらも俺は額に汗を浮かべながら嬉しそうな顔をしている竜華に声をかけた。
「りゅ、竜華ちゃん? どうしたのそんな声張り上げて……」
「ふぅ……ふぅ……あ、お兄ちゃん! おかえりなさい!!」
息が上がっているのか肩で呼吸している竜華が俺を見る。
どうやら俺が帰ってきている事すら気付いていなかったようだ。
何にそんな夢中になっていたのだろうか。
それを聞いてみたかったが、多分今の竜華に聞く事は無理そうだ。マラソンでも走ったのかと思う程、達成感と疲労感で満ち溢れていて、まともに喋れそうに見えない。
なのでアレイスターさんに事を経緯を説明してもらうことにした。
「アレイスターさん、これは一体……」
「あぁ、この小さき竜がやっと成し遂げた」
「いや、だからその経緯を教えて欲しくて……」
「俺から教えてやれる事はもう無い。行くのだな、修羅の道を――」
「ふぅ……はいッ!」
「いや、あの、だから……」
「お兄ちゃん達! うるさいっ!!」
まるで説明になっていないアレイスターさんの話を聞いていると、テレビを見ていたであろうルフに怒られてしまった。
ソファーの背もたれから今にも噛み付いてきそうな程、ぐるると唸り、目をつり上げていた。
「ごめんねルフちゃん。皆静かにするからね」
俺が叫んだ訳じゃないのに……。これでルフにお兄ちゃん嫌いなんて言われたら今度は俺が叫びそうだ……。
そうならないためにも、声を抑えながら事情を聞く。
「ラウちゃんが言うには修行していたと言ってたけど、何してたんだ」
「修行は修行だけど……お兄ちゃんにはまだ見せてあげない」
背負っていたリュックから水筒を取り出し、それを竜華に飲ませて落ち着かせる。
ごくごくと一気に飲んだ後、竜華は俺と同じくらいの声のトーンでそんな事を言ってきた。
「その言い方……凄く気になる」
「でしょ。だってそういう風にしてるんだもんっ! ふふっ」
得意気に語る竜華。さてはまたテレビの影響を受けたな、これ。
修行の成果のお披露目を焦らす竜華に俺は何と反応してやるのが正解なのだろうか。
パッと頭に浮かんだ、駄々っ子のように床で大の字になり、手足をばたつかせるのは多分、いや絶対に無しだ。
竜華どころかルフやラウちゃんにもドン引かれる。
それどころかラウちゃんが口を滑らし、課長の耳にでも入ってみろ――ひえっ……
俺の心を読んだのかアレイスターさんの顔が若干緩んだように見えた。
ふっ、と笑ったアレイスターさんが口元を手で隠す。
多分、読んで、想像した姿があまりにも滑稽だったのだろう。言われんでも俺が一番分かってるっつーの!
「そっか。じゃあ見せてくれるまでの楽しみにしておくよ。約束」
「あっ……うんっ!」
竜華の手を取り、半ば無理やりおまじないをかける。
ラウちゃんとも行ったあのおまじないだ。
竜華は勝手にされた約束を見ながら、嬉しそうに声を上げた。
そんな俺達を見ていたラウちゃんが竜華におどおどしながら声をかけた。
「竜華、良いの? 破ったら針飲まされちゃうよ……?」
「へっ?」
ラウちゃんの言葉に素っ頓狂な声を上げた竜華。
竜華は何を言われたのか分かっていない様子であったが、事の経緯を想像してくれたのであろう。
ジトーっとした目が何か言いたげそうにしていた。その目と合った瞬間、俺がさっと目を逸らしてしまったのはやましい事があるからでは決してない。
けれども竜華が何か言ってくることはなかった。寧ろ、いたずらな笑みを浮かべてはラウちゃんに向けて言葉を投げる。
「そうよ、ラウ。これを破ってしまうと、針千本飲まされるどころか、その舌まで引っこ抜かれちゃうのよ!」
「ぴゃ、ぴゃあぁぁーッ!?」
竜華の言葉にラウちゃんが怯えた。これで良いんでしょ、みたいな竜華の視線が俺を射抜く。
いや、俺はそこまで言ってない。っていうか、何でそんなにノリノリなんだ。
「りゅ、りゅうか〜。どうしよう〜、ラウはどうしたら〜」
「大丈夫よ。約束を守れば問題ないわっ!」
ラウちゃんが泣きそうになりながら竜華に縋り付く。
竜華はそんなラウちゃんの頭を撫でながら宥めていた。
「ほんとに? ほんとに大丈夫……?」
「大丈夫よ、大丈夫。だからほら泣きそうな顔しないの」
竜華の顔が満足そうににんまりとしていた。
これは、あれか。普段ルフにはしてやられっぱなしで、ラウちゃんみたいに素直に甘えられるのが嬉しいのだろうか。
二人の様子を見るに、確かにこっちの方が姉妹っぽさがある。ドラマやアニメなんかで描かれるそれそのものだ。
色々と影響受けているなこの子。
「慶志郎、俺は戻る。また明日な」
「あ、はい。ありがとうございました」
そんな二人の様子を見ているとアレイスターさんがそう言った。
玄関に向かうアレイスターさんを見送るために俺も付いていく。
「ほんとすみません。アレイスターさんも忙しい筈なのに」
「気にするな。俺は先生に言われているだけだ。それに子供の相手をするのも存外楽しいものだからな」
そう言ってくれたアレイスターさんの本心は分からない。
表情にも全く表れないこの人を見透かすのは俺には難しい。
「何か意外です」
「よく言われる」
でも何となくだけど、言葉通りに捉えても良い気がする。勘がそう言ってくれているから。
「そういえばオウミさんは大丈夫そうですか? ご飯ちゃんと食べてます? ちゃんと眠れていますか?」
「お前が気にかけずとも先生の事なら心配無い。それとも何だ、お前が会えなくて寂しいのか」
アレイスターさんにそう聞かれ、気が付いた。
多分、俺はオウミさんに会えなくて寂しいんだと思う。
おばあちゃんのように全てを優しく包み込んでくれるあの人に甘えたいんだと思う。
でも、俺がわがままを言うわけにはいかない。オウミさんも忙しくも頑張っているのなら尚更だ。
「そうかも、しれません……」
「そうか」
この気持ちもアレイスターさんには筒抜けなのだろう。俺の心を汲み取って、それ以上何も言わないのはアレイスターさんなりの優しさなのだろうか。
「慶志郎、全てが終わったら俺から先生に言っておいてやる。だが、お前の想いは自分で先生に伝えろ」
「えっ――」
そう言ってアレイスターさんはおまじないの小指を俺に向けた。
優しげに見つめてくるアレイスターさんのその指と、俺の小指を絡め合い、そして離れ合う。
「約束だ」
穏やかな微笑みを浮かべたアレイスターさんが、そう言い残し帰って行った。
残された俺は閉まるドアを前に虚空を見つめる。
心臓の動きが早いのはおそらく気のせいではない。ドキドキしている。
不意に見せるあの顔はまじで心臓に悪い。絶対何人かたぶらかしている。
落ち着け俺、落ち着け――
アレイスターさんは男。俺も男。
俺が好きなのは巨乳なお姉さんであり、決して男ではない。故にアーッ! な展開などに発展なんてしない。
「お兄ちゃん何してるの?」
「慶志郎お兄ちゃん、どうしたの? ご飯作らないの?」
俺があまりにも戻らないからか竜華とラウちゃんが呼びに来た。
竜華を後ろから抱きしめるようにしてラウちゃんがくっついている。
「いや、何でもない。アレイスターさんと話してただけ。っていうか、仲良いな」
「うんっ!」
「少しベタベタしすぎだけどね」
満面の笑みを浮かべ、尻尾をばたつかせるラウちゃんと、やれやれって感じに呆れる竜華。
ここまでラウちゃんが懐いたのはやはり同じ子供同士だからだろうか。
それともお互いに境遇が似ているから意気投合したのだろうか。
どちらにせよ思うことはやっぱり、竜華のコミュ力はバケモンである。
「じゃあ、ちゃっちゃとやっちゃいますか! 二人共、勿論手伝ってくれるんでしょ?」
「はーいっ!」
「しょうがないわねぇー、お兄ちゃんはっ!」
ピョコっと手と耳が立つラウちゃんと、渋々と言った口調の竜華。
言葉は違えど、表情は二人して嬉しそうだ。
「そういやルフは? まだテレビ見てんの?」
そう二人に聞きながら再びリビングに戻る。
「おっ兄ちゃーんッ! ルフもお手伝いするーッ!!」
「ぴゃうっ!?」
「ちょ、ルフッ!?」
テレビを見終わったルフが元気良く飛び込んできた。
さっきまでの不機嫌は一切無い。寧ろ、めちゃくちゃご機嫌である。
そんなルフを難無く俺は受け止める。
「みゃ? みゃみゃっ?」
抱えられたルフが困惑といった表情で俺の顔を覗き込んでくる。
どうしたのだろうは――愚問である。
「ふっふっふ。ルフー? お兄ちゃんもいつもやられっぱなしじゃないんだよ?」
多分、前の俺なら腰がグギギっとなっていたであろう。その反応がルフを喜ばせていた。
だがルフちゃん! 俺も成長しているのだよ!
「むーっ! お兄ちゃんのいじわる」
腕の中でルフが悔しそうに頬を膨らませていた。
それをツンと突くと、みゃッ! と怒られてしまった。
「成長しているならちゃんと叱ってあげなさいよ」
後ろで竜華が言う。
やめろ竜華。それは俺に効く……
「それよりもルフもお手伝いしてくれるんでしょ?」
「うん! あさもユキちゃんのてつだった!」
竜華の声を聞こえないふりしてルフに訊ねると、得意気にそう語った。
それが余程嬉しそうに見えたので俺はルフを頭をくしゃくしゃと撫でる。
「お兄ちゃんはほんとルフに甘いものよ」
「でもルフちゃんも喜んでるし……」
二人の会話が聞こえてくる。
ルフに甘いんじゃない。竜華にも、ラウちゃんにだって甘いぞ俺は!
そんなこと自慢気に言ったらオウミさんにこっぴどく怒られそうだから言わないけど。
「さて皆、課長が帰って来る前にちゃちゃっと終わらせようか」
俺はルフを下ろし、三人に告げると、キッチンに立った。




